二話・No.087 ポー『死に別れても二人で愛し合おう』
 司書は重たく傾いた頭を起こしますと、目の前には月明かりに照らされた蒼い薔薇と黒い本がありました。先程まで立っていたのに、今は大理石のように冷たく硬いソファに座っています。急に展開が変わって怯える彼女は自分の身体を見下ろしました。レースを裾や袖から覗かせた華やかな黒のベロアのドレスに着替えていました。自分の身体が影にべったりと張り付けられたような不快な感覚を覚え、思わず短い悲鳴を上げます。横から「煩い」と男の声がしました。
 顔の半分仮面に覆われた男は不機嫌そうに毛先をいじっていました。身体のほとんどを黒い洋服やら装飾やらで身をまとった男は噂の怪盗の身形と全く同じです。司書は言葉を失って驚きましたが、黄金色の髪をいじる仕草にどこか幼さを感じました。
 独り寂しそうな男にだんだんと親しみを覚え、茫然と眺めていますと彼は見つめ返しました。ただ、あまりにもじっと見つめてきますので、何だか魂を奪われそうな恐怖を覚えました。男の視線に耐え切れず、司書は彼の本心を知りたくなり男とお話を始めました。
 どうしてそんなに見つめるのか ――
「貴様の姿を絵にするからだ」
 それよりもこの蒼い薔薇を描いたらどうだろう ――
「それが希望になるのならとっくに描いている」
 近くに置いてある本は? ――
「私が書いた詩集だ。さあ、読め。そして覚えろ。私の為に」
 どうして詩を諳んじるのか ――
「…………御託はいいから詠め」
 男は何かを言いかけましたが、黙ってしまいました。その沈黙に彼の本心が隠されているのでしょう。ですが、よほど言いたくなかったのでしょうか。そのまま腕を組んで口をつぐんでしまいました。あとは、「私の為に詩を詠め。だが、ただ詠むだけではない。波が漂うように詠え」と言うばかりです。
 物足りなさそうに髪をいじっているので、まるで読み聞かせをしてほしくてたまらない子どもみたいだと司書はくすくすと笑いながら詩を諳んじました。「笑える内容ではなかったはずだ。最初から読み直せ」また笑ってやり直しになりました。
 司書はあまりにも彼に親しみを覚えてしまい、怪盗の瞳の奥にあった恐怖はどこか消えてしまいました。やがて疑念を感じます。目の前の男は、本当に女を攫って死に至らしめる怪盗なのでしょうか。彼は何かを必死に求めているようで、その求めている何かを持っている女性たちを誘拐しているのだろうと推理します。
 しかし、怪盗は詩を詠う以外許されないと断固として司書の話を聞いてくれませんでした。なら、自分も家に返されたら死ぬのかと恐々と怪盗に訊きました。彼は黙ってしまいました。
「私を愛せば死ぬに決まっている」
 怪盗は司書の傍に座って彼女の手を取りました。自分の太腿を肘掛のようにして司書の手を添えます。彼女は先程怪盗が言った言葉を上手く聞き取れなかったので、何と言おうか困ってしまい眉をひそめました。それに男は黙ったまま手を握っているだけです。時折視線を交わしては、詩を詠めと蒼い瞳で訴えてきます。本当に詩を詠う以外許されませんでした。
 彼女が詩を詠っている間、どんなに愛撫されても男の手は冷たいままでした。血が凍っているようでした。彼女の温かな血潮を巡る肌に触れても、彼の凍った血は永遠に溶けないでしょう。どんなに詩を詠み上げても、怪盗の手から熱を帯びることは一切ありませんでした。
 司書はこの手はまるで亡くなった人間のようだと感じ、怪盗に攫われた女性たちの遺体を思い描きました。この男の手の冷たさを知ってしまったせいで、女性たちは死を予感し絶望に抗えず屈してしまったのでしょう。
 死の恐ろしさに身を震わせながらも、司書は詞を詠むのを止めて左右の手を重ねて自らを温めました。手に浮かんだ血管からはとくとくと鼓動を感じます。魂が消える恐怖に戦慄きつつも、心臓はまだ生きています。残された時間の中で、彼女は恐怖に隠された希望を探りました。
 自分の絵はいつ見られるのか ――
「貴様が生き残っていたら見せてやろう。いつかな」
 生き残ったら見せてほしい、いつか ――
「ああ、いつか。……だが、そんな未来を死は許さないだろう」
 貴方の為に生き残る ――
「生き残って見せろ。私を愛しても死に恐れず生き残れ」
 そうしたら、貴方は私を愛してくれますか、その問いに怪盗は黙りました。何故自分が女を愛さないとならないのかと言わんばかりに目を見開いて驚いています。黙る男に司書は言葉を続けます。攫った女性たちを愛していましたか、それでも男は口を閉ざしたままです。
 どうして女性たちを攫ったのか ――「…………」
 どうして彼女たちを攫ったのか ――「…………」
 どうして私を攫ったのか ―― 怪盗はようやく答えました。
「私の母親を探しているからだ」

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