この黒い通信機は大正時代に登場した二号自動式卓上電話機を模したもので、円錐型の受話器で文豪たちの声を聴き、細長いの胴の上にあるスピーカーを通して彼らに声を届けます。
潜書時の状況を事細かく伝える他にも、時には世界の様子を詩的に表現したり、時には侵蝕者の攻撃によって思わず弱音を吐いてしまったりと余裕さえあれば司書と色んなお話をしたりします。
文豪たちから司書に話しかけることは多いですが、司書から彼らに話しかけることはありません。電話に似ているとは言え、思わずおしゃべりをしたくなりますが、皆が守るべき文学の状況を知るすべは文豪たちの証言とこれしかないのです。
受話器の向こうの声を、ただじっと待って聞くのが司書の務めのひとつです。しかし、随分と時間が経っても声が聞こえなければ、彼らの身に何かがあったのでしょう。言葉を出すほどの余裕さえもない状況に陥ったと考えられます。
もしそのようなことが起きてしまったら、司書は潜書した文豪たちの著作を読み上げます。著作を読むことは彼らにとって侵蝕者と立ち向かえる力にもなりますし、本の世界の外側の道しるべにもなるのです。
* *
今だってそう。有碍書となった自身の著作に潜ってくると言って、それっきりまったく通信が来ない森の為に司書は彼の詩を詠いました。彼の返事が来るまで詠い続けました。
その詩は空気さえ存在しない暗闇に消えていきます。洋紙に馴染まずにいる墨のようにどんよりとした漆黒の中、森は槍を振るって侵蝕者と闘っていました。気づけば、暗闇はどんどん拡がって彼の影さえ見えなくなりました。
ようやく闘いが終わった頃には、足元が真っ暗でした。倒れた侵蝕者から零れ落ちた洋墨だったかもしれませんし、疲弊した彼の精神が映し出した影かもしれません。どこを踏めばいいのか分かりませんし、どこを踏んでも足元がおぼつかないのです。
しかも帰り道が見当たりません。自ら侵蝕者と闘うために来たというのに、行く先を見失ってしまったのです。本当は行く先を見つけていたのですが、その先は恐ろしいと嫌でも感じました。
どこからか石炭のような臭いが鼻をかすめました。鼻先にこびりつく焼けた異臭に恐れた彼はついに立ち止まります。理想や夢を見て歩んだはずの道はどれも成功へとつながりませんでした。あったのは過ちと病気ばかり。
森はとうとう振り返ることも先を見ることも疲れて目を閉じました。いつものように図書館の中庭で深く息を吸って考えを巡らせれば落ち着くはずのに、この暗澹とした場所ではうまく呼吸ができません。
また失敗したかと嘆いたその時、彼の耳元から泣きそうな声が聞こえました。一瞬誰の声なのか思い出せませんでしたが、司書が何かを言っています。耳を澄ますと彼の詩を詠う声が聞こえました。
「そんなに震えていては上手く詠えないだろう」
そう続けて、深呼吸をすれば貴方ならもっと上手に詠えると励ました。急に話しかけられた司書はあたふたしながらも森の言うとおりに息を整えて、震える声を落ち着かせました。スピーカーに向けて呼吸を繰り返すものだから、彼は耳元に息を吹きかけられたかのようにくすぐったくなって、肩を震わせて笑い出しました。司書もつられて笑みをこぼしました。
「心配させてすまない。今、帰る」
なんとも自信に満ちた声に司書は喜んで二つ返事をしました。迷いのない彼の足音を聞いて、司書は胸を張って詩を詠いました。彼が無事に帰ってくるように祈りをうたに載せます。
暗闇からかすかに光が灯しました。弱い光ですが、どこか懐かしい感じがしたので、彼はそこが帰るべき道だと信じて歩を進めました。光はやがて見たことがある風景に変わり、慣れ親しんだ匂いが風に乗ってやってきました。潮の香りから土のにおい、そして、群集のざわめきを越えて、あの坂へと上っていきます。
―― われその幌を搴ぐるとき、
彼は肩にかけた白衣をしっかりと握って決して離さないように前を向きました。失敗はあれどもまだ人を救える力はあります。
―― 嗚呼われその幌を 搴ぐるとき、
遠い海を越えてきた鴎の力強い羽ばたきのように、白衣が拡げると暗闇はすでに光の中へと溶け込んでいきました。
「ただいま」
ようやく図書館に帰ってきた彼に、司書はおかえりなさいとにこやかに迎えました。
「笑」
われその巷に ちかづくとき
愛犬ゆくてを 遮り吠ゆ
われその扉を 排するとき
大喙のからす 簷端になく
われその垣内に ただずむとき
木の間ゆ舌吐く 蛇うかがふ
われその堂宇に のぼれるとき
僮僕ゆゑなく 目もてかたる
われその幌を 搴ぐるとき
嗚呼われその幌を 搴ぐるとき
面上猶認む 往時の笑
引用:『うた日記 春陽堂版』森林太郎著 ほるぷ出版 昭和54年発行
掲載日:2021年05月14日
文字数:1838字
