「僕は君の『初恋』なんだ」

No.10 島崎藤村・003『初恋』

 文学との出会いにも初恋というものがありまして、その思い出はいついかなる時でも林檎のコンポートのような柔らかい甘酸っぱさを感じます。
 司書が詩そのものに興味を持ったのは、島崎藤村の『初恋』がきっかけでした。学生の頃に国語の授業で、便覧に載ってある詩の中から印象に残ったもの、好きだと思ったものをノートに書き写しなさいと先生から課題を出されました。その時に彼女は島崎の『初恋』を見つけました。気だるげにページをめくって、ふと恋の文字に引かれて読んでみたら、彼女は本当にその詩に恋したのです。
 彼女の瞳に映ったのは、ただの黒い文字ではなく、薄紅の林檎、そして少女の真っ白な手でした。その色とりどりの光景に目を奪われていると、不思議にも真新しい西風の匂いが鼻孔をくすぐらせました。色彩だけではなく香りも文字から溢れ出ていたのです。詩を読んでいくうちに、彼女の胸はときめきを覚えた心臓の高鳴りにどんどんと温かくなっていきました。
 島崎を転生したその日司書は、貴方があの『初恋』の人と言って彼をひどく混乱させました。島崎は、彼女の初恋の人を自分だと勘違いしてしまったのです。
 恋の文字に胸をときめかせた島崎は、口を滑らせてあたふたする司書にじりじりと詰め寄った挙句、「君の初恋について詳しく聞かせてもらってもいいかな?」といつもの聞きたがりの癖が出てしまいました。本当は司書に詩を読んでくれて照れていました。普段は死んだ魚のような眼をしている彼でも、胸の中では初恋に似た感情に火照っていたのです。
 照れ隠しつつも、彼女に自身の作った詩について質問を何度かしていくうちに、ついに司書が心を開きました。印刷された機械的な文字から色鮮やかな絵画を見つけた驚きは昨日のように覚えていて、詩に恋した瞬間、正に初恋であったと島崎の前ではにかみました。
 詩を読んでくれただけではなく、気に入って紙に書き写し、しかも自身の詩に恋したことに藤村は心の底から喜びを感じました。また、彼の詩をきっかけに様々な詩歌を読むようになったという話は彼の詩人としての新たな功績です。
 これが生き続けてきた苦悩の果てに実った成果であることに、のちに彼は気づき一人感涙しました。涙を流したというよりかは、涙で潤むその輝きがあの生気のない瞳に希望の光が戻ったようにも見えます。
 司書が語った自身の詩との思い出、そして自身の実った努力を胸に彼は誓いました。彼女との思い出を失わない為にも文学を抹消する侵蝕者と闘うことを、藤の花の色に染まった銃に魂を込めました。
 しかし、そのような魂にも誓った強い決意に侵蝕者は怯みませんでした。
 このような文学にまつわる思い出も侵蝕者にとっては禁じられた果実のように舌が痺れるほどに甘くも苦く、かじれば恐ろしき恥が身をむしばみ、一刻でも早く消してしまいたいと暴れ出すのです。
 とうとう島崎の詩も侵蝕され、『若菜集』に描かれた蝶の羽も所々傷んできました。彼のマントに結ばれた蝶の形に似た飾り紐も急にほどけて、今まで繋がっていた人々との関係が途切れたようだと錯覚に陥ります。家族を顧みない彼を非難する声が再び脳内に響き、やがて響く声が漏れだして嫌にも耳元に囁いてくるのです。
 しかし、彼は屈しませんでした。今の彼の瞳は希望に満ちているのです。
 時代を超えて彼の作品ごと認めた人々の魂と繋いだ蝶の舌を伸ばし、林檎の花に受粉させました。そして、林檎を真っ赤に丸々と育てさせて『初恋』に実らせました。だから、今も『初恋』に実った林檎は闇夜の灯火の如く輝いているのです。彼の心身を温めたあの思い出もその灯火の中に燃えていました。
「司書さんと出会って、本当に自分の詩を守りたくなったんだ。君らが嫌っても僕は守るよ、自分の詩も司書さんの思い出も」
 銃身を握りしめて、手のひらがあの真っ赤な林檎のように赤く滲むまで、強く強く握りしめます。また恋の文字に胸が高鳴り、思わず笑みがこぼれました。
「僕は司書さんの『初恋』なんだ。それぐらい好きにさせてよ」

『初戀』(一部抜粋)

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の實に
 人こひ初めしはじめなり



 引用:『藤村詩抄』島崎藤村著 岩波書店 1991年発行
 掲載日:2021年06月30日
 加筆日:2021年11月19日
 文字数:1642字
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