「これをご覧になりたかったのでしょう?」

No.08 谷崎潤一郎・004『ハイヒール』

 ずっとそこで司書が来るのをわざわざ立って待っていたのでしょうか。司書が図書館の出入口の扉を開けたと同時に谷崎のすらりとした艶やかな姿が現れました。こんにちはと挨拶する間もなく、谷崎はいきなりもっと扱き使っても良いんですよと彼女ににじり寄ってねだるように言ってきました。昨日まで上品に挨拶をしてくれた彼が突然その品性を押しのけて、欲望をむき出しに目をしばたたくので司書は茫然としました。そもそも司書は彼が欲するような酷使の仕方を未だに解っていません。彼が転生してから幾日も経ちましたが、彼の痛そうな欲望にはいつも頭を悩ませます。
 それでも彼女は物欲しそうにじっと見つめる谷崎を見つめ返しました。やや間を置いてから、扱き使わないけれど今日はハイヒールを履いて一緒に仕事して、と。
 どんな酷い仕打ちにも喜んで飛びつく谷崎でも、司書に突拍子もないことを言われて面を食らいました。普段の彼女は優しく、それはもうたった一筆書くだけで簡単に終わるような仕事でもお礼にモカロールをあげてしまうほどです。司書は一体何を考えているのでしょうか。そう思案していると、彼の心は何故かうずうずとしてきました。考え事の裏ではいつもの妄想が走りだそうとしていたのです。
 上手に歩けたら褒めてあげる、そう言って彼女は司書室の奥から靴箱を持ってきて、薄墨色に輝くサテン生地のハイヒールを取り出しました。長身の人間が履くような大きい靴でした。ヒールはその靴を履いた人間の重さでいとも簡単に折れてしまいそうなほどに細く、先端についた滑り止めのゴムも頼りなく薄いです。しかも高さは10㎝以上もありましょうか、あまりにも踵の部分が高いので地に付くところは足の指だけです。
 このような靴を履けば、まるで鹿のように飛び跳ねないと歩きにくいのではと谷崎は妄想し、その力なく飛び跳ねる自身の情けない姿を眺める司書の憐れむ目つきを想像したところで気持ちが一気に昂りました。思わず荒げる吐息を手で押さ、妄想の続き見たさに彼は二つ返事で言いました。
「ええ、是非、是非とも! そのようにさせてください。ささ、その靴を私に履かせてください。ああでもこの着物の格好ではその靴には合いませんね。洋装ならきっと似合うでしょう。申し訳ありませんが、着替えの時間を頂いてもよろしいでしょうか」
 彼の熱のこもった返答に驚いた彼女は口を開けたまま生返事をしました。着替え終わった谷崎に靴を渡しながら、彼の夢である女物の靴に生まれ変わりたいという話を持ち出しました。女物の靴になりたいのなら、それと似たような靴を自身は履かないのではなかろうかと打ち明けます。
「確かに女性の靴に生まれ変わりたい、そう夢見ていますよ。ただ今は、あなたの要望に応えたいその一心です」
 気付けば、薄墨色のハイヒールはすっかりと彼の足を包みました。足先から血管や皮膚、筋肉さえも圧迫する靴を眺めて、谷崎は恍惚に笑みをこぼします。つま先から踵まで覆うサテン生地の一本一本を指でなぞります。まるでやっと捕らえた蝉鬢を愛するように撫でるのです。
「このような高価な靴を、私の為に買ってくださったのでしょう。こんなにも踵が高いものまでつけて……これを履いて闊歩できる者は選ばれし者と言っても過言ではありません。ああ、残念ながら私はそんな選ばれし者ではなかった。今立っているだけでも足は古木の枯れ葉のように震えています。ちょっとしたなよ風が吹いただけでも崩れてしまいそうなほどに足元が覚束ないのです。なんと見苦しいことでしょうか! でも、あなたはこれをご覧になりたかったのでしょう? 天女の髪で編んだような靴を履いて、無様にも地に滑り崩れる私の無様な姿を!」
 190㎝も超えた大の男が身体を震わせて興奮しながら己の妄想を大声で吐露する様は、司書から見ると何とも恐ろしくもあり、恐怖が一周して滑稽にも見えました。彼の妄想から生じた熱気に悪寒を感じ、口の端を引きつらせながら笑顔を作りました。
 正直なところ、彼の髪色に似た靴を偶然見つけたのでそれを履かせてみたいという思いから買っただけでしたが、谷崎が喜んでその場で踊るように舞っているので楽しそうならそれでいいかと落ち着きました。
「それで司書さん。上手に歩けましたら、何を頂けるのでしょうか」
 彼女はちょっと考えてから、資生堂パーラーのアイスクリームソーダ水をおごってあげると答えました。続けて、お店までその靴で履いていってほしいと提案すると谷崎はまたすぐに妄想して、銀座の群集にも私の無様な姿を晒そうというのですねと狂喜しました。そう言うだろうなと司書は自分の閃いた悪戯に苦笑しつつも、今の中性的な彼の姿を大衆に見せてみたかったのです。つま先立ちであろうともしなやかな佇まいで麗しくいる彼の姿は、地に降臨した天女さながらに美しかったのです。
 なので、谷崎に念を押すように繰り返し言うのです。上手に歩けたら、ご褒美をあげると。彼の返事と共につま先で床を跳ねる音が響きました。

 執筆日:2021年08月15日
 掲載日:2021年11月01日
 加筆修正日:2023年04月25日
 文字数:2037字
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