走れ司書! 館内でそう高らかに発した太宰の言葉を聞いて、司書は感動に震える胸に手を当てました。まるで熟れたさくらんぼのように頬を赤らめて、ありがとうとお礼を言う彼女に、彼は格好をつけた姿勢を崩し間の抜けた声を出しました。
彼自身はいつものふざけた癖を司書の前で披露しただけだったのですが、彼女をよく見れば喜びに目を輝かせています。どうやら、かの有名な文豪である彼から自身の著書をもじって元気づけてくれたことに感動したというのです。
「あー、そういえばあんた、俺のファンだったね」
実に嬉しそうでいる司書を茶化すように彼は皮肉に一笑しました。どんな時でも面白おかしくしたい性分である太宰から見たら、司書の喜ぶ姿はとても可笑しかったのです。あのようなお遊びで作った言葉なんかただ笑って流せばいいのにと彼のふざけた癖がだんだんと白けてきました。
司書は、本当に太宰のファンであって良かったと笑みを浮かべて、清々しい気分で仕事に取り掛かりました。面と向かってファンでよかったと言われた彼は歯切れの悪い返答をします。彼女の真面目な態度に、彼の人を面白くさせたい気持ちがすっかり消え失せてしまいました。ちょっとだけ死にたいという思いが影法師のように心ににじり寄ってきました。
目の前にある本棚の硬い部分に頭を勢いよくぶつければお陀仏になるかなと額を棚の冷たいところにくっつけました。心の底から意気消沈してしまった太宰なんか気にもせず、司書は配架の仕事を楽しそうに続けました。
図書館のステンドグラスから夕方の日差しが差し込んできた頃、太陽の温かさに気持ちが落ち着いた太宰は司書の方に顔を上げました。軽やかな足取りで本を棚に入れていく司書に、「あんた、本当に元気だね」と思ったことをそのまま呟きました。それを耳にした彼女は、太宰に元気づけられたからだと真っ直ぐな瞳で彼を見つめます。その目の輝きに彼は心臓がどきりと少し痛むような閃光を受け、やや涙声に「偉い人だな」と視線を床に下ろしました。
薄氷を踏むような思いで相手にふざけた言葉を投げる、成功すればその場で滑って笑うだけですが、失敗すればぱきぱきとひびが嫌に鳴るか、そのまま薄氷の下に溺れ落ちます。下手をすれば自分が死んでしまうような状況を、彼は常に作っていないと気が済まないのです。転生した今も、生まれ変わったからと言ってやはり死にたい病は治りませんでした。
以前、ある日の補修室にて病んだ心の赴くままに司書にも心中を勧誘しましたが、まだ今年の桃を食べていないからその後だったら良いよと遠回しに断られました。結局は彼女と一緒に桃を飽きるほどに食べ尽くしましたが、未だに一緒に川に飛び込んでくれませんでした。
ただ彼は気づいていました。司書は自分と一緒に死ぬ気がないことを。そもそも文豪を転生させたアルケミストがその人より先に亡くなると、転生した方も共に消えてしまうようなのです。そんな特殊能力の事情もありますが、一番は司書が太宰の為に死なないように必死に生き続けようとしていることでしょう。
生まれ変わったのだから、前よりもせめて長生きしてほしいという願いがある、彼女にそう言われたことを思い出しました。ただあの時は有碍書の障気に当てられて、陰鬱な気持ちに心が押しつぶされそうになり、身体さえも動けない状況で看病されながら聞いていました。もしかしたら夢現の間に生じたまぼろしの言葉だったかもしれません。
俺を長生きしてほしいなら、ふざけた言葉に何もかも忘れてしまうほどに大笑いしたって良いじゃないかと後々になって彼はすねました。けれども、こんな悪ふざけにも真摯に聞き答えしてくれる彼女が怖いぐらい幸福そうだなと恨めしくも羨ましくもありました。
「あんたはやっぱり良い女だ、惚れちゃうよ」と心に想った言葉を投げても、太宰の前だから良い女性でいられるのよと博愛の微笑みで返されました。冗談交じりとは言え、本音も入っていたので思わず「手ごわいなあ」と本棚に額を軽くぶつけました。
西に傾く陽光は気づけば、本棚に沿って歩く司書の姿を照らしていました。棚やら柱やら自分の影やらで薄暗くなった太宰は、明るくて真面目な司書であっても、やはりふざけて一緒に笑いたいと次の悪ふざけを考えました。そうしないと死んでしまいそうになるのです。また自身の著書をもじって司書を茶化してみようかと、懸命に悪ふざけの内容を捻り出そうとしました。
執筆日:2021年08月24日
掲載日:2021年11月01日
文字数:1813字
