本当は眠たいのです。転生した当初から、森はあまり十分な睡眠時間を得られていませんでした。自らわざと少ない睡眠時間で生活を送っていたのです。何せ、前世の森鴎外は二、三時間の休息があれば活動できる体質であったと言われていました。起きている時間はほとんど創作か勉学に励んでいたようです。だから、転生した森も同じ体質であろうと信じていました。少ない休息をしてから、一日のほとんどを図書館の業務や自身の生涯学習に励もうとしました。しかし、いつも睡魔に襲われてそれどころではありませんでした。
いつの日か、森が眠気に集中が途切れて仕事を失敗した時、司書は実に悲しそうな顔をしていました。彼女の立場からしたら、潜書以外の業務も真面目に果たそうとし疲労困憊する森を気遣って、当時勤めていた助手の文豪と共に彼の仕事を請け負いました。ですが、彼からしたら大変屈辱を受けるものでした。
過去に成功したことなんかないと言いつつも、やはり人前で失敗を晒すのは気分が悪いものです。しかも、見られた相手が自分を憧れだと言われたからにはもっと恥ずかしいです。それに、自らの失敗を他人に、――しかも他の男に任せるなんて許されません。
「何故彼に任せようとするんだ」と森の魂に嫉妬の炎が激しく燃え上がりました。後々から相手になんて酷いことを言ってしまったのかと距離を置くようにしたものの、それでも司書が自分ではなく、他の相手を選んだことに怒りを覚えました。ちょっとした口論をした後、すがるように司書の腕を掴んで「この後始末は俺がする、信じろ」と必死に自らの失敗を片付けました。
彼女の腕を強く握りすぎた為に数日間森の手の痕が赤く残ってしまいました。森が見つけた時は、司書は外出した後に手を洗おうと袖を捲くっていました。最初は腕に火傷をしたのかと心配して診ましたが、だんだんとその傷が彼の手の形にぴったりと合って森は恐怖を感じました。触れれば触れるほどその傷は熱を持っていました。本当に火傷をしたような熱さでした。
それなのに司書は平然と何でもないように装うので、いつ病気になってもおかしくない怪我を何故ずっと隠していたのかと追い詰めました。司書が泣きそうな顔をして謝ったのをきっかけに、ようやく森は正気を取り戻しました。嫉妬の思うままに動かされた体は司書が負った火傷よりもずっと熱くて、魂さえ焼け焦がれそうでした。
森は嫌なことを思い出したと頭を振ります。眠りにつく前に悪夢を見ました。先ほどの出来事が自責の念となって、悪夢を見たまま眠りに付けと囁いているようでした。それで司書に許されるなら、どうでもいいと自暴自棄になりかけましたが、心のどこかではたとえ彼女の前で失敗を晒しても一緒になおしてくれるだろうと信頼していました。
そう思うとふと身体が軽くなり、気づけば椅子に寄りかかって目を閉じていました。このまま眠れるなと思ったら、もうすでに眠りにつきました。
*
夢の中で森は津波に襲われていました。津波と言っても、彼の周りに居た街の人々が騒いでいるだけで波の気配なんて全く感じませんでした。それに彼がいるところは海から遠く、しかも坂の多い場所です。前世に来たことがある懐かしい場所なので、土地のことは大分覚えています。前世の記憶のおかげというよりも、ここは過去に司書と一緒に出かけたことがあります。彼女との思い出のおかげで森は冷静に辺りを見渡すことができました。
坂の下にいたら波であっという間に攫われるでしょうけれど、逆に坂の上にいけば安心です。だから高いところへ向かおうとした途端、足元はすっかり波に覆われていました。波の速さに驚いて何とか逃げようとしましたが思うように足が動きません。一歩一歩進むごとに波の下に足が埋もれて、波が後ろへ引く度に足を持っていかれそうになります。足を踏ん張って歩きますが、急に波が押し寄せてきたので膝と手をついてしまいました。