三話・No.013 森鴎外『たったひとりの青年』
 目の前で、波がうねる光を刃のようにぎらつかせて彼の生命を脅かします。なんとも恐ろしい自然の光景に目を奪われていますと、森はだんだんと光の中に美しさを見出しました。
 この光は、森が初めて異国の土地に足を踏み入れた時に見た太陽の白さと同じでした。そして、波間からその異国の匂いが漂ってきたのです。空気の匂い、この匂いを嗅いだだけで自分はこの土地にいる者とは全く違う人間であることに気付かされ、嘆きながらも、驚きと興奮に満ちた若き日を思い出しました。この波は森が訪れたことがあるベルリンの川から運ばれてきたものなのでしょう。彼はすっかり虜になっていました。
 前世の記憶を垣間見て惚けていると、ちくりと痛みが足首の辺りに走りました。痛いと思えば、急に熱くなり、漏れ出した血が波の中で一筋の赤い糸となって浮かんでいました。まるで蛇みたいだと気を取られていたら、森は本当に蛇になってしまいました。蛇になって水面を撫でるように泳いでいますと、波の色がすっかり黒ずんでいることに気付きました。あんなにも白い太陽を照り返すほどに美しかった波はまるで墨のように濁り、醜くもどこか嫌にも親しみを覚えました。
 こんな波の上を泳ぐは嫌だと森は辺りを見回し、どこか波から逃げられる場所はないかと探しました。彼がいたところは、元々木がたくさん生い茂っていた場所だったのでしょうか、多くの木が水面から伸びていました。見上げると人々が枝の上に乗って津波から逃れようと必死にしがみついています。
 彼もそれを見習って近くにあった木に巻き付いて登りました。複数の木々が絡み合って一本の大木のように見え、ばらばらに伸びている木の上を登っていくのに大変苦労しました。複雑に絡み合う木々の中、蛇になってしまった自分も気を抜けば、この木の一部になってしまうのではないかとはらはらしました。この木にはいくつか成長を止めてしまった木が何本かありました。可愛らしい花を咲かせたまま木が萎れていたり、中には綺麗とも言えない葉を付けたまま木が朽ちていました。
 木の頂へ登っていくにつれて、苔に覆われた黒い木がこの大木の中心となって天へと伸びていました。山のようにどっしりとしていて落ち着く場所でしたが、何故か居心地悪く感じました。この黒檀のような木を辿っていけば、安全なのは確かなのでしょうけれど、たどり着いた先にある未来は森が欲しているものではないと察していました。それにだんだんと大きな黒い蛇に見えてきて、その上を行ったら本当に良くないことが起きそうだと確信しました。
 わざと道を外して津波がよく見える枝先の方を進みますと、一人の女性が枝の上に座っていました。その人は森に気付かずに木の上をずっと眺めていますので、一向に動かず邪魔だなと思ってぶら下がっていた足に嚙みつきました。舌先から温かな血がじんわりと広がり、彼の乾いた喉を潤してくれました。
 その人は痛いと泣いて叫びますも蛇を見て、まるで人間のように接して謝りました。しかもこの上に登りたいと分かってくれたのでしょうか、腕を伸ばし蛇を自分の手に絡ませて、道を通してくれました。
 なんて優しい人なのだろうと嚙みついたことに後悔した森はその人の顔を見ました。ですが、その人は蛇がこちらを見るのを制して上の方に指を差します。あの枝の上に綺麗な人がいるから見ておいでと言われたので見上げてみました。
 こんな蛇に噛まれても優しくしてくれた人が見つけた美しいものは、さぞ見目麗しいだろうと小さな目で綺麗な人を見つめました。まだ幼さが残る少女に見えたかと思えば、情欲を誘う女性にも見え、瞬きすると黄金色の髪をした異国の少女が帽子を持ってこちらに笑みを向けていました。何だかどこかで見たことがあると近づけば、そばかすの女性に変わって、次は芸術品のような美しさを持った女性が凛々しい顔で待っていました。
 やがて、その綺麗な人がいる枝の上に登ると司書がいました。綺麗な人がいただろうと得意げな顔をして、森を自分の傍に座らせました。彼女の手を取った瞬間、彼は人間に戻っていました。鱗が優しい雨のように降って剥がれていくと、波の上に点々と落ちていきました。鱗は波に揉まれていくつかは沈んでいき、いくつかは潮が引いていくのと一緒に波の中へと連れていかれました。


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