「見つかったか」

006/第一話・No.078 徳田秋声『すべての始まり』

 あれはちょうど五年前の秋の暮だったでしょうか。徳田が初めて司書と出会ってから少し日が経った時分に、ちょっとした会話から司書にこう言われました。私が今まで文学に触れて読んできたのは、徳田秋声という文豪の作品の素晴らしさを知る為だったと、彼女は今までの募る思いを文豪本人の前で言えてとても気持ち良かったのでしょう、胸が昂って興奮していました。彼女の熱気に当てられた彼は思わず体をのけぞってしまうほどに引きました。
 けれども、今胸の内で思い返してみると案外気持ちが良いものだと温かな気持ちになりました。冬に近づく晩秋の夜に思い出しましたので、乾いた寒さを忘れるほどに胸の中からぽかぽかと温もりが湧いてきました。
 前世では何度書いても書いても、結局小説の難しさに頭を悩ませたまま彼は筆を置いてしまいました。それが、まさか生まれ変わって現代に生きる読者に、しかも目の前で熱意のこもった賛辞を送られるとは思ってもいませんでした。自分が書き残したものが、一五〇年経った今も読まれ続けていることを知って、嬉しい気持ちがある一方、自分が小説に対して難解な心持でいたことを果たしてどれぐらいの読者に分かってくれたのか気になりますし、そもそも自分の小説を読んで何を面白そうにしているのか理解できない部分がありました。そんな自分の小説を読むぐらいなら、兄弟子の泉や同郷の室生の作品を読んだ方がずっと面白いだろうと冷え切った宵闇の窓に映る自分に向かって眉間にしわを寄せます。
 徳田は自分には才能が無い無いと嘆いていながらも、いざ君には才能があると人から褒められるとどうしても納得できません。この天邪鬼な性癖は転生した今も身についていますので、やはり死んでも治らないものは治らないのでしょう。誰が相手であろうと、もう一度魂をこの世に呼び出してくれた司書の前でさえ、徳田はにこりともせず、捻くれた態度を崩さずにいます。
 そういえば司書からの賛辞を貰った後、なぜ彼女がそのようなことを言い出したのか理由を聞いていなかったので、徳田は仕事の休憩をしている彼女に尋ねました。すると、川端の賛辞を知っているかと逆に尋ねられました。
「ああ、なんか随分と大袈裟なことを言ってたね。大人しそうな人だなと思ったけれど、まさかあんなことを僕に言ってたなんて」
 日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶ、司書もこの言葉に共感できるとにこにこしながら、また徳田を褒め始めました。上手い具合に彼女の話に載せられてしまった彼は、こいつは面倒ごとに巻き込まれると後ずさりしながら後悔しました。しかも、司書の手が彼の肩の上に載っていて、逃げられずにいました。なので仕方なく諦めた心持で彼女の話を聞きました。
 司書は自分の中の文学は秋声からはじまって、源氏までたどり着いたと言います。彼女は義務教育やアルケミストの修行の一環で、文学に携わる様々な勉学や体験をしました。現代では馴染みのない古語を覚えることで、当時の人物たちの言動を理解できた知的な楽しさもあれば、古人の想いが一〇〇年以上も生きている時代が違う自分にも痛いほど共感できた悲しみや苦しみもありました。特に日本文学が大きく発展した明治大正昭和の近代文学は、彼女が読みたい、知りたい、教わりたい作品がたくさんありましたので、大変よく読みました。島崎藤村の詩で文学の初恋を体験し、森鴎外の小説で多彩な日本語の魅力を知り、新美南吉の童話で登場人物と友だちになりました。
 時には文学を難しく思い、手を止めたことがありましたが、それでもアルケミストにとって必要不可欠である文学を紐解いていきました。教科書に載った名高い文豪の作品を懸命に勉強し、図書館の棚によく見かける名の知れた文豪の著書を漁るように読みました。文学に必死でいた頃は、何を読んだのか彼女の記憶にはあまり残っていませんでした。その頃から侵蝕者たちが暗躍していましたので、彼らに文学に関する記憶を奪われていました。それでも、歴史や過去に遺された書物を読みたい欲求を失うことはありませんでした。
 図書館に何度も足を運び、一人で読書を楽しむこともあれば、声に出して音になった文章を鑑賞したり、友人たちと一つの本を取り上げて語り合ったり、読んでほしい本を紹介したりしました。著書の最後のページによく載っている書籍の紹介文から気になる題名や著名を探したり、実際にその本を読んでみたりと本から本へと読書する様はまさに旅をするようで、気付けば文学の難しさなんかどこかへ飛んで行ってしまいました。
 ある日、司書がふと本棚にある本と目が合って(本に目なんてありませんけど彼女はこの時から本にも目があるようだと信じていました。)いざ読んでみたら今の自分が探し求めていた答や考えがそこに載っていたのです。この出来事は、ちょうどあの食べ物や料理が食べたいなと食欲がわいてそれを食べて満腹する感覚と全く同じです。自分が求めているものを本が呼んできて答えてくれる、そんな不可思議な体験を繰り返していくうちに、司書はようやく徳田秋声の名を見つけ、彼の著書を手に取りました。
 そこで自分は彼女に見つけられてしまったのかと、徳田は怪訝そうな顔をしながら耳を傾けました。司書は彼の作品を読んだ時の衝撃と言ったら今も思い出せると、だんだんと面白くなって肩を震わせました。あんな地味な作品が日本の文学にあるとは思ってもいなかったと本人のことをお構いなく一笑します。もし自分が大して文学に触れていない人であったら、ほんの数秒で本を閉じてしまうだろうと頭を搔きました。

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