「見つかったか」

006/第二話・No.078 徳田秋声『すべての始まり』

 けれども、彼女は徳田の本を閉じませんでした。地味と言いながらも、無駄のない洗礼された言葉遣いや人物たちの言動をさもその場に生きているかのように自然と動かす巧みな文章を目で辿っていきました。指で文章を辿るように視線がよどみなく流れ、その流れた視線の先にはその時代に生きる人物たちの姿が現実味を増して、今そこに映し出されたかのように見えてきたのです。ついに作品を読み終えると、彼女は本を持った指先さえまでも体を震わせて感動しました。
 今まで読み続けてきた自身の体験や経験、知識がこの作家徳田秋声の作品によって見事に開花し、文学の面白さ、素晴らしさをようやく実感したと熱っぽく語りました。自分の文学はようやくここから始まったと胸を押さえながら、秋声作品を皮切りに彼女が今まで読んできた多くの文豪や著作の名を挙げていきました。島崎藤村を通じて北村透谷の詩を詠うことができ、魚城の三汀のおかげで俳句にも親しみを覚え、芥川龍之介の小説が名作たる理由を知る機会を得ました。そして、エドガー・アラン・ポーの作品に恐る恐る触れて、日本文学どころか海外文学にも知的な興奮に胸が昂るようになったのです。
 大変褒めてくる司書の話がなかなか止まりませんので、徳田の恥じらいが沸々と沸騰したお湯のように熱くなって顔から火が出そうになりました。「ここ図書館の中だから静かにして」と徳田は指折りしながら数々の著作を語る彼女を落ち着かせようとします、ですが、熱っぽさに目を潤わせて瞳を輝かせる彼女と視線が合ってしまい、思わず閉口してしまいました。
 いつもの徳田なら何を言っているんだと捻くれた態度で相手をしないところですが、五年経ってついに聞くことができた彼女の徳田を熱心に褒める理由を知ってしまい、あまりの嬉しさに思わず口元がにやけてしまいそうなのです。けれども、いくら数年の付き合いがある司書の前とは言えど、ゆでだこみたいに真っ赤になって馬鹿に笑う顔を見られるのは嫌だと歯を食いしばって彼女の話を耳から耳へと流しました。他の文豪の名を挙げたかと思えば、よく聞くと徳田のことをまた褒めていて、うっかりと聞いてしまった彼は耳の先まで恥ずかしさに真っ赤っかでした。
 ここまで長く人から賛辞の言葉を浴びることはなかったものですから、さすがに徳田も彼女の熱意を受け止めきれなくなり、「もういいだろ」と声を張り上げました。こことぞばかりに、泉が本棚の影から顔を出して徳田の大声に叱りつけてきました。あまり聞きたくない人物の声で叱られた徳田は何かを泉に言いかけましたが、どうせ無駄であると諦めて無言になってしまいました。「司書さんは、秋声のことを本当に好く思って云ってくれているのです。きちんと最後まで聴くのですよ」と泉は黙る徳田の傍をただ過ぎ去っていきました。
 泉は司書が徳田のことを褒め始めたところから本棚を壁にずっと聞いていたのです。彼女の語る言葉に一つ一つ頷きながら聞いて、時には兄弟弟子のことを良く言われて微笑みました。泉は自分がこの図書館に転生してから今の今まで徳田が司書に大事にされていることを知り心から満足げにいました。そのような喜びの感情を徳田の前で見せればいいものですが、泉は徳田には徳田なりの喜びを味わってほしいと願っているので、自身の嬉しい気持ちを隠したままその場を後にしました。
 一瞬緊張が走りましたが、再び二人っきりになると司書は続きを話していいか聞いてきました。「もうよしてくれないかな……。これ以上身が持たないよ」疲れ切った顔をしている徳田の顔から、司書は彼の気持ちを汲んで話を止めましたが、どうしてもまだ言い足りないので、続きは手紙にしたためても良いかと手をたたいて閃きました。
「君、本当に僕のことを話したいんだね。……でももう飽きたでしょ、僕のことなんか」
 徳田は自ら蔑むような言葉を言ったのにも関わらず、唇を震わせていました。本当は飽きずに自分のことを見続けてほしいとさえ願っていました。顔が真っ赤になるほど火照ったかと思えば、落ちて来そうな涙に顔をしかめて悲しみに鼻先が赤く滲んできました。
 自分に良いことがあったらその次には嫌なことが起こる、そんな幸不幸の繰り返しに怯えた徳田は散々人を褒めてくれた司書も自分の才能に飽きれてどこか行ってしまうのではないかと心配で仕方ないのです。
 あと少しで目から涙がこぼれそうになった時、司書は徳田の手を取って彼の眼を見ながら言いました。飽きるどころか、ますます貴方のことを読み続けたいと気持ちが湧いてくる、もっと読んで貴方の作品を自分のものにしたいと心から晴れたような笑顔をしました。最後の情熱的な言葉にさすがの徳田も苦笑いしました。
 嬉しくて思わず涙し、顔を床に俯けたまま司書の手を握り返しました。彼女に笑顔を見せても涙だけは見せたくない彼は、何とかして彼女に礼を言おうとしましたが、とめどなく溢れる涙に唇も濡れては震え、「ありがとう」とそっけない言い方になってしまいました。
 急に頭を下げた徳田に司書は茫然としていましたが、握り返された手の先で何か濡れたものを感じ、彼の今の感情を指先で読み取りました。お礼を言いたいのはこちらであると、司書は自分の頭を徳田の頭に当てました。上目遣いすると、自分の垂れた髪の向こうに、彼の艶やかな黒髪が短く垂れて、その先には未だ涙を垂らす鼻や頬が見えました。
 傍から見れば二人で頭を下げて手を取り合っている滑稽な姿をしていますが、互いの頭の先から伝わるぬくもりに二人の胸の奥から温かな気持ちが湧いてきました。ちょうどいい具合に二つの歯車が噛み合って、静かに回りだし、振動で温度が上がっていくように、手を握り合っている指先も温かです。
 もうちょっと秋声のお話をしたいからお手紙にして書きますからね、ちゃんと読んでくださいね、お返事を待ってますよ、という司書に、徳田はすべての言葉に分かった、分かった、分かったからと捻くれた心がついに解きほぐされて笑みをこぼしました。

  美しと人も仰げよ星の恋


 引用:『徳田秋聲全集第二十七巻』徳田秋聲著 八木書店出版 2002年発行
 掲載日:2021年11月01日
 加筆修正日:2023年02月02日
 文字数:4741字

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