彼が言うに、もう一度人として生まれ変わったのだから、もう一度本当の意味で目が見えて、耳が聞こえる者になりたいと常に努力しているようです。彼の努力が司書の心に響いたのでしょうか、じっくりと聞いてくれるその耳と受け応えて微笑む眼差しが彼女の脳裏に焼き付いていました。
森からすれば突拍子もないことを傍で言われましたので、すぐには答えられませんでした。しばし好奇心に瞳を輝かせる司書を見つめて、再び実の娘のように父性を持って彼女に慈悲を与えました。「ああ、構わない」とかがんで頭を軽く傾けました。彼女は柔らかそうな彼の耳たぶを触ってみると、ほのかに温かみを感じ、晩秋の寒さにかじかむ指にぬくもりが返ってきました。
司書の冷たい指に思わず身を震わせた彼は、彼女の身体を案じてそろそろ部屋の中に戻ることを勧めようとしましたが、呑気な彼女は、本当にあったかいですねと彼の耳たぶを指先でこねて遊んでいました。彼女の気が済むまで笑って相槌を打ちました。
だんだんと森の耳よりも司書の指の方が温かくなり、指先に触れられるたびに彼は耳から彼女の血潮を授かっているような心地良さを感じました。じんわりとした温かな波が彼の頭の先までゆっくりと流れ込んできます。
「憧れを持った人物の前にいれば気持ちが高まって、俺だって顔を赤らめる。何度も貴方の前で見せたと思うが、気が付かなかったか」
司書は不思議そうに聞いていましたが、彼の憧れの先が自分であったことにようやく気付くととっさに彼の耳から指を離しました。紅潮した頬ではにかんでいますも、困った顔をして焦りました。何をそんなにも困っているのかと不思議そうに尋ねる森に、彼の言う憧れは自分なんかで良いのかと聞きました。
「俺たちのような文士を転生させただけではなく、常日頃から優しく見守っているだろ。何度補修室で貴方が傷ついた彼らを癒してくれたことか。時には、こうして文士たちの趣味嗜好に合わせて遊びに来てくれる。ただの文豪ではなく、一人の人間として付き合ってくれる貴方に俺は憧れているんだ。自分の美点を見下すものでない、もっと誇りに持ってほしい」
司書は真摯に向き合う森に一瞬怯えもしましたし、彼が自身のことを大変よく見てくれていたことにも驚きました。緊張に心臓が変に鳴りましたが、肩に添えられた彼の広い手から伝わるぬくもりに緊張がほぐれて落ち着きを取り戻しました。
涼しい秋風に頭が冴えわたると、司書はようやく彼の言葉を受け入れることができました。森の真似をしただけだと言う彼女の言葉に、今度は彼が困惑しました。
「あれが俺の真似だったのか。随分と過大評価した真似だな」と腕を組んで釈然とする彼を見て、司書はやはり似た者同士だなと確信しました。
過大評価なんかではない、自分の行動こそ森の人となりの姿が反映されている、今まで優しくいられたのも貴方のおかげであると微笑みました。彼女の笑顔は慈悲に満ちた彼の笑みにどことなく似ていました。
そうかと腕を下ろして納得した彼は歯を見せて笑います。「そう言われてしまうと、照れてしまうな」と言葉通り、照れくささに頬の上には、はっきりと赤みが帯びていました。
赤くなったと紅葉したもみじを見つけたように喜んだ司書は、思わず彼の頬に触れました。懸命につま先立ちになって腕を伸ばす彼女に、森はその手に身を委ねて愛おしさを覚えました。
煌めく西日は二人の影を一つに重ねます。草花の影も一つになった影に寄り添うように、どんどんと伸びていき、やがて地面の上にはもう一つの庭が咲き溢れました。
『青年』(一部抜粋)
坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧立って、冷たくなっている耳や鼻や、手足の尖までも漲り渡るような心持がした。
引用:『青年』森鴎外著(「青空文庫」より)
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2522_5002.html(外部サイト)
掲載日:2021年11月27日
文字数:3061字
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