「ありがとう、貴方のおかげだ」

009/第二話・No.013 森鴎外『一緒に生きたいからお礼を言う』

*六年経っても、俺の前ではよく恥じらうな」
 彼はそう落ち着いた様子で司書の顔をしげしげと眺めました。司書が森のことを慕っているのは彼が転生した当時からよく知っていますので、彼が何を言おうとすぐに頬を赤く染める司書は見慣れています。
 最初は盲目の尊敬ではなかろうかと心配していましたが、四年前のバレンタインの一件から司書の行動をよく見るようになり、常日頃文豪たちを慮る彼女を尊敬するようになりました。やがて、森は彼女に親しみを覚えました。五年も経ちましたから思い出を語り合える相手になりました。
 「今日はミナ君はお菓子を食べたか」と聞きますと、まだであると司書は答えました。
「なら一緒に食べよう。貴方が紹介してくれたお菓子を多めに買ってある」
 そう言って、一緒に近くのテーブルの席に座りました。森は買っておいた、甘いマカロンと花の香りがするマカロンを小さな箱から出しますと、先に出したものを司書にあげました。最後に出したものは自分の前にあったお皿の上に載せました。司書は彼のお皿に載せられたマカロンを見て嬉しそうに目を輝かせました。
「貴方が気に入ってくれたお菓子が気になって買ってみたんだ。貴方に渡したお菓子は俺が店で食べて一番気に入ったものだ。これでも甘い物の美味さをよく知っている。貴方も気に入ってくれるだろう。さあ、食べてくれ」
 ですが、司書はじっと見つめたまま食べませんでした。おやと不思議に思い、様子を見ていますとお司書の膝の上に座っていたぬいぐるみのミナも円らな瞳で、じいっとマカロンを見つめていました。なるほど、最初はミナ君に食べさせているんだなと森は近くを通ったキャロルに紅茶を淹れてくれ、飲んで待ちました。
 周りはパーティーに盛り上がって、だんだんと騒ぎ始めました。けれども、二人の周りだけ静謐な雰囲気を保っていました。ひそひそと囁いて話し合う二人の声は聞いたものの耳をくすぐらせます。こそばゆくて、心地の良い響きです。愛の囁きかと思ってよく聞けば、
「貴方はよく食べる人だから一つでは物足りないか」――……。
「あとで、あそこのテーブルの上にあるビスケットを取ってこよう」――……。
「うん? いらないのか。何、俺の愛でお腹いっぱいだと。貴方は何を言ってるのか」――……。
 声を上げて笑い合う二人は何だか家族のようにも見えました。愛情の形は人それぞれですからね。
 ぬいぐるみのミナがマカロンを瞳で充分に堪能したようなので、司書は手を合わせていただきますと言ってからおやつを食べました。森は司書が食べるのを待っていたので、彼もようやくマカロンにかじりつきました。花の香りが鼻孔をくすぐると、舌の上にはチョコレートのとろけるような甘さが拡がりました。
 美味いなと司書に言いますと、彼女は口いっぱいに頬張ったので片頬を膨らませながら、うんうんと美味しそうに頷きました。よく噛んでから飲み込みますと、ミナを撫でながら美味しかったと微笑みます。そして、森にも笑顔を向けてお礼を言いました。こんなにも美味しいものを贈ってくれてありがとうございます、と。
 森は補修室でよく言われる治療のお礼と今のお礼を比べましたが、どちらも劣ることも勝ることもありません。ただ、自分にとって美味しかったものを司書と共有できたことに喜びを感じました。そのお礼から美味がもたらす幸福の共感を得ました。森も司書に勧めてくれたお菓子を食べられた喜びをお礼にして言いました。ぬいぐるみのミナにも食べてくれてありがとうと言いますと、司書に撫でてほしいとミナを渡されました。
「随分と温かいな、ミナ君は。貴方や周りの皆からよく大事にされているのが分かる」
 ぬいぐるみを撫でているつもりが、何だか司書の頭を撫でているような気分になりました。彼女も何か通じたものがあったのでしょうか、ぬいぐるみを撫でられるたびに身をよじってくすぐったそうに照れています。
 やはり二人の周りには静けさに満ちています。司書が愛らしいと森の中にこだまする魂の歯車の回る音さえよく聞こえました。二人にだけよく聞こえました。


 注釈:*作中の時期を2022年とし、この図書館では2016年に森鴎外が転生されたと設定する。
 掲載日:2022年04月12日
 加筆修正日:2023年02月06日
 文字数:3796字
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