「お前の思い出が全部俺だけになったら、」

010/第一話・No.073 檀一雄『思い出に抱擁される性命』

 気持ちよく朝を迎えられる条件は、これから世界が始まるのだと告げるために森閑と静まっているところで、太陽が顔を出し、日に温められた空気が風となって始まりの音を震わせます。草花の生命開く小さな音から始め、虫や鳥、獣たちの生き生きとした鳴き声、そして人々が動き出す騒がしい音が順々に寝ている人の耳の中に入っていくことでしょう。特に小鳥の鳴き声を聞いて夢から醒めたら今日も無事に朝を迎えられたと感動さえ覚えます。
 司書はどこか遠くから聞こえる小鳥の声を聴いて目が覚めました。久しぶりに朝日が昇り始めた頃に起きたので、朝食を摂る前に散歩に出ました。図書館の中に文豪たちの居住区があるように、司書も仕事部屋の近くに寝泊まり出来る自室を持っています。
 着替えをしてから部屋を出てすぐに中庭に向うと、朝霞に身を包まれます。朝日に温められた霞は鼻孔を吹き抜けるような新鮮な空気で満たされていました。ほんの少しだけ春の陽気に当てられた草木の青々とした匂いも混じっています。
 建物に囲まれた中庭は太陽の光はまだ見えず、空の向こうから白んでくるちょっとした輝きに照らされていました。直接日の光ではっきりと見るよりも、わずかな明かりを頼りに風景を眺める方が寝ぼけまなこにはちょうどいいぐらいでした。夢か現か曖昧な明暗の中で自然豊かな緑の濃淡を見るのは司書にとっては楽しかったようで、気が付けば自室から大分離れた所まで歩いていました。
 不意に、小鳥の鳴き声が響きました。足を止めて耳を澄ましますと、もう一度同じ声が聞こえました。少し歩いたところにある木に小鳥がいるのだろうかと近寄っていきましたが、別の所から鳴き声が聞こえました。今度ははっきりと、ホーホケキョと鳴いたのでうぐいすが中庭に遊びに来たのでしょう。
 どこにいるのだろうと辺りをきょろきょろと見渡して、その場でくるくると回るように探していますと人影を認めました。檀が手を大きく振りながら司書に近づいてきたのです。台所から出て来た彼は、心配そうに何か探し物をしているのかと尋ねました。
「お前が中庭でうろうろしているから、何か落とし物でもしたのかと思ったんだ。俺も一緒に探すよ」
 檀は、昨日の晩酌で酔いつぶれてしまった太宰たちの為におめざを作っていました。ちょうど朝餉の準備も終わりましたので、暇を持て余していた時に司書の姿を見つけました。
 司書は落とし物ではなく、探し物をしていると言いました。「どんなものだ」と檀に聞かれましたので、うぐいすと答えました。
「うぐいすがここにいるのか。なんだ、それなら簡単に捕まえられるぞ。ちょっとそこで待ってろ」
 あっという間に檀はうぐいすがいるであろう、木の下まで駆けていきました。司書は彼の後を付いていくように小走りします。何も考えなしに走り出したような檀を心配して追っていきましたら、彼は止まることなく木の上に登っていきました。司書の目の前で急に消えたような彼の影に驚き、思わず立ち止まります。数分も経たない内に獲ったと檀の大きな声が頭上から響きました。
「ほら、獲ったぞ。見てみろよ!」
 檀は軽やかに木の上から飛び降りて、手に持っていた物を司書に見せました。彼女は息づく間もなく、探していたうぐいすを見せられて驚きと興奮と疲れで、わあと短い言葉を発して自分の感情を表現するのが限界でした。
 彼の手の中でうぐいすは暴れ回っています。生き物の生死の狭間に暴れる様を見て司書は怖気づいてしまいました。檀はそんな司書を窺って小鳥を触ってみたいけど怖いのだろうと読み取り、両手で水をすくうような形にしてほしいと言いました。
「そうだ。そのまま――そこに、こいつを入れるからしっかり握るんだ」
 そう言いながら、彼女の両手にうぐいすを入れて、鳥が逃げないように彼女の手ごと包み込むように檀も手を握りました。司書の手の中で温かくて小さな心臓が暴れ回っているようです。うぐいすは翼や足、嘴、小さな身体に用いるありったけの力を振り絞って空へ逃げようと努力しました。嘴をつつかれて痛がる司書に、檀は着物の裾を持ち上げていたたすきをすばやく解いて、それを小鳥にかぶせました。
「本当は、布をかぶせた鳥かごに入れて鳥が落ち着くまで待ったほうがいいんだけどな。でもこうやって、手の中で鳥を捕まえてみるのもいいだろ。不思議とこんなにも小さな命から自分の命と関連しているような気分になるんだ」
 このうぐいすは元々大人しかった性分だったのでしょう。布をかぶせられて数分も経たないうちに、暴れることを止めて司書の手の中にすっぽりとおさまりました。
「お前の手の中が気持ちかったんだろうな。もう大人しくなっちまった」
 檀は中の様子を見ようと、静かに布を持ち上げました。布の影からちらりとうぐいすの黒くて丸い目が輝きます。その輝きが涙を流しているように見えて、司書は可哀想な気持ちになりました。それに二人の人間の手に温められて、真夏の日差しのように大変暑いのでしょう。喉が渇いたように嘴を奥から舌を出したまま喘いでいました。とても春を告げる歌声とは言えない、暑苦しそうな鳴き声でした。

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