「お前の思い出が全部俺だけになったら、」

010/第二話・No.073 檀一雄『思い出に抱擁される性命』

「空を飛び回っている鳥を自分の手の中に持った時は、命を抱きしめているような気分になる。ああ、これが生きているっていう感覚なんだなって」
 檀はたすきを地面に落として、もう一度司書の手ごと小鳥を包みます。彼よりも温かな司書の手に触れて、久しぶりに人肌のぬくもりを得られました。安心さえ覚えるそのぬくもりをもっと感じたいと檀は彼女の手を強く握り、自由に動ける親指で彼女の肌を撫でました。
 小鳥とはまた違う、生命を抱擁する感覚に檀は自分の性に火が点いたようでした。親指で撫で返す肌の柔らかな弾力に甘えていいのだと錯覚し、握れば握るほど熱を帯びていく彼女の手の中の血潮からひとつになっていいのだと夢心地になりました。
 手の中のうぐいすと同じように静かになった檀に向かって、司書は鳥かごの中に入れても小鳥は鳴くのかと訊きました。
「多分、鳴くんじゃないか。鳥が鳴きもせずにかごの中で静かになったら、こと切れたんだなって分かるよ」
 彼女は鳥かごの中で羽を閉じて横たわる小鳥を想像しましたら、顔を青ざめて思わず可哀そうにと口に出しました。そのぐらい彼女はこのうぐいすの将来を不安に思い、想像した亡骸にも献花を贈りたいほどに悲痛な思いをしていました。
 きっとうぐいすは大人しいだけではなく賢さもあったのでしょう。大変可哀そうに思っている司書の本当の気持ち――木の上で朝の爽やかさに気持ちよく鳴くうぐいすを見たかった、それが無理なら、生い茂った木の葉の中にいるうぐいすの鳴き声にじっと耳を傾けていたかった――そう、うぐいすは彼女の本心を読み取ったのでしょう。彼女の可哀そうに思っている心の代わりに、黒い目を涙で濡れたように輝かせてじっと見つめました。
「そろそろ、中に戻ろう。後で俺が鳥かごを用意するからさ。そいつがよく鳴けるように、お前の代わりに世話もするよ。大丈夫。子どもの頃、よく鳥を飼っていたからそういうの得意なんだ」
 二人の手の間を巡る皮膚を通した血潮は熱く煮え切ったと思えば、上手く溶け合わず、嫌な汗となって吹き出しました。司書はうぐいすを空に解き放してもいいかと檀に尋ねました。
 彼は最初は残念そうに驚きましたが、わざわざ尋ねてくる彼女の真面目さに真摯に受け応えます。「……お前がそうしたいなら、良いぞ」そう言いつつも、彼女の手を離すのに躊躇いを覚えました。
 司書はありがとうとお礼を言って、檀の手をそっと押しのけて花開くように手のひらを広げました。うぐいすはすぐに飛び去ります。小さな翼を力強く羽ばたかせたかと思えば、柔らかな春風に乗ってすぐに木々の中へと静かに隠れました。そして、やや間を置いてから、ホーホケキョと心から安らいだような鳴き声が聞こえました。
 朝日はすっかり建物の上に昇ってきて、人々が動き出す時刻になるとうぐいすは梢や木の葉の影にこっそりと隠れて身を潜めました。もう鳴き声は聞こえなくなりました。群衆が動き出す騒音が遠くから響いてきます。
 それでも、司書は小鳥の声を懐かしそうに耳を澄ましていました。ふと檀から「欲しくなかったのか」と聞かれますも、本当に欲しかったのは、こうしてうぐいすの声を聞いて、またいつかどこかで思い返す記憶だと答えました。
「いいな。そういう、……お前なりの、正しい愛のよろこびっていうやつ」
 ちょうど建物の上から顔を出した輝かしい朝日のおかげで、照れくさそうにする檀の顔がよく見えました。愛という言葉はどうも抹香くさく、無頼派を語る彼には似合わないようです。
 彼は司書がうぐいすの面影に見とれていると思って照れた顔を隠さずにいたものですから、すぐに横に向いた司書に見つかって紅潮した頬を指さされました。司書は檀の言葉を耳でちゃんと聞いていたようです。朝から良いものをたくさん見たと彼女に茶化されます。
「なんだよ。まさかお前、俺のこんな恥ずかしい顔も後で思い返したりするのか」
 冗談交じりに笑った檀は、照れた自分の顔を振り返る司書を想像しました。一人でにやつく様子が滑稽に思えましたが、その笑みに親しみを覚えれば、やはり性を刺激するような情欲もありました。やはり、傍に居るよりもどこか遠くで自分のことを思ってくれる誰かがいる方が、檀にとって互いの愛情をより結びつけると確信しました。
 檀の照れた顔は珍しいからずっと覚えると思う、そう司書は微笑んで言いました。何度も彼女とやりとりを繰り返しその度に見せた檀の表情を果たして司書はどのぐらい覚えてくれるのか、彼は試したくなりました。
「お前の思い出が全部俺だけになったら、あの鳥よりももっと空に羽ばたけそうな――爽快な気分になるよ」
 いつか褥を共にしたペンギンも、あの冷たい氷海の中で自分のことを思い出してくれたいいなと夢見ました。


 リスペクト:『ペンギン記』檀一雄著
 掲載日:2022年06月17日
 文字数:4030字
 BGM / 'You'll Find Me' Marine Eyes

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