「構ってくる方が淋しいんだろう」

011/第一話 No.060 尾崎放哉『ひとりになれない孤独な世界』

 何か良からぬ嵐の闇を見つめる彼の眼がぱっと灯ります。自然の恐怖に対する生命の鼓動でしょうか。いいえ、その嵐で自分以外の生命が綺麗さっぱりに消え去ってほしい望みです。尾崎はこれ以上の人との関わりを望んでいませんでした。もう独りが良かったのです。己の感情を誰にも渡したくないほどに、彼は孤独を欲していました。
 図書館に用意された部屋よりも、始めから本に潜書すれば全くの独りになれると気が付いたのはつい最近でした。あまりにも種田や他の俳人、それにお人好しの文豪たちと関わり過ぎました。尾崎自身、人と関わった分誰かが死んだり、傷つけられたり、心身どちらも傷を与えるような被虐的で暴力的な人間ではありません。時々種田のような寂しがり屋な人間から泣きつかれますが、ただ泣かれるだけです。
 とにかく自分以外の人間と一緒にいるのが苦手なのです。そんな思いを理解できない人間が、何故独りが良いのかと尾崎に聞いても真に理解できないでしょう。彼だって自身の孤独を癒す術を俳句以外分かっていません。もしかしたら、俳句でも孤独は癒せないのかもしれません。一度侵蝕者に捨てようとした彼の唯一の創作です。大空に投げ放ったとしても、どこまでも恐ろしく広がる空に余計に孤独を感じまいます。
「ああ……、おおぞら。なんで、あの句集の名前、おおぞらって言うんだ……?」
 潮風を辿って木々をくぐっていきますと、尾崎の頭上に空が現れました。
 森の中を歩いている時から、既に空は彼の影を映していましたが、尾崎は妖しくも妙に懐かしい森の木に包まれているような感覚に落ちていました。暗緑色の枝々の隙間から漏れる闇が彼の眼をもっと明るくさせました。強い風が吹き、虚ろな木々だけが鳴り響く中、本当に誰もいないのだなと尾崎の笑みがこぼれました。
 全くの独りになれたというのに、この風に乗って種田の暢気な声が聞こえてきそうだと変な期待が湧き上がってきました。「いいや、落ち着けよ。頭が可笑しくなったんじゃないか」そう独り言ちると、足元にあった木の実を認めました。両手を入れ物にしてもらったものは、木の実以外にもありました。木の実の艶から、司書の顔を思い出しました。
「あー、勘弁してくれよ。構ってくる方が淋しいんだろう。そうなんだよ……まったく」
 今空の下に抜け出した尾崎の元に一羽の鳥が舞い降ります。大空から生まれたようにするりと翼を広げて現れました。彼の眼に魂の歯車が淡く輝きます。この眼を見て欲しいと、鳥に己の感情を曝け出しました。
 嵐の闇に生き残った鳥が尾崎を見つけて大層嬉しそうに鳴いています。丸っこくて人懐っこい茶黒の羽を眺め、雀だと分かった彼の心が一瞬気を許します。すると雀は人の姿となって彼を抱き締めました。女の姿です。雀のような茶色をした絹の着物は柔らかく、首元から見える肌も羽毛のように温かでした。尾崎は丸くて親し気な雀の姿を何もない両手で握ってみたかったのですが、腕を空しく伸ばしたままです。女となった雀は彼に倒れるようにもたれかかったので、尾崎は彼女の背中に腕を回して受け止めました。もう十分抱き締めた、そう思ったのも実際には束の間です。一瞬の触れ合いさえ、尾崎にとっては重すぎる時間でした。雀の羽に軽く触れただけでも、彼の魂は熱く焦がれそうです。
 尾崎が腕を離しますと、雀は彼の嫌に燻る魂の匂いを感じたのでしょうか。再び鳥の姿に戻り、大空へと飛び立っていきました。彼を振り返らず、留まる素振りも見せずに、すぐに羽搏いてしまいました。あっという間の出来事に、彼の籠った熱が一気に冷めていきます。
「何だよ、淋しかったんじゃなかったのかよ」
 飛び立つ前に雀の顔を覗きました。人の姿をした雀はどことなく司書に似ていました。
「あいつ、マジで何がしたいんだ……。こんなの所まで俺に構って、……怖すぎるだろ」
 恐怖を覚えながらも、尾崎は本の世界に潜り続けました。いつかまたどこかで、あの雀に会えるだろうという淡い期待が彼の燻る魂をより燃やします。冷めた熱をもう一度取り戻そうとしていますが、彼の中では無意識だったようです。誰かが傍に居るはずなのに、全く嫌な気持ちになりませんでした。けれども、彼の欲する孤独が嫌がっていました。
 尾崎は本当に独りになろうとあの雀から逃れる為に海鳴りのしない場所へと移動しました。しかし、どうしても潮の匂いがする懐かしいあの場所に戻ってしまいます。森の木々の間から、嵐の闇を見つけ全て吹っ飛ばしてくれと眼を輝かせて願いますが、森を抜ければあの雀が待っていました。ある時は足元に木の実をたくさん用意していたり、またある時はこちらが呼んでくれるまでずっと背中を見せていたりしました。
 雀が自分と同じ孤独を匂わす墓石だったらいいのにと思いながらも、雀の前に回り込み睨みます。既に女の姿をしている雀は急に顔を覗き込まれて驚きました。しばし尾崎に睨まれますが、気にも留めずに彼を抱き締めました。灯りをともしに来た女の瞳に似て、彼の胸の内が熱くなりそうです。この熱を欲していたのに、独りになれてしまった尾崎にはとても熱すぎました。突き放してこのまま走り去ってしまいたいほどに魂を焦がす熱が彼を苛立たせます。
「あんた……こんなことをしたって無駄なの分かってるだろ。俺に時間を費やしたって何の足しにもならない」
 散々雀に振り回された尾崎は興ざめし、何日振りかに図書館に戻りました。アカとアオに見つかって、尾崎を心配している者たちがずっと探し回っていたと彼らの苦労を延々と聞かされました。種田も放浪癖がありますので、尾崎の行動を理解してくれるだろうとすぐに彼の元に逃げようとします。二人のどちらかが、司書も待っていたのだから謝罪して来いと怒っていました。尾崎はもう会ったと言いつつも、どうせ理解してくれないだろうと独り言ちて久し振りの自室へ向かいました。

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