「構ってくる方が淋しいんだろう」

011/第二話 No.060 尾崎放哉『ひとりになれない孤独な世界』

 種田と軽く会話をしてから、尾崎は一人布団の中で泥のように眠りました。夢の中でもあの雀に会いましたが、鳥の姿のまま尾崎の手の中にすっぽりと収まりました。また彼の方から手を離すと、雀はあの大空へと飛んでいきました。あの句の通りの光景を見ているはずなのに、彼の心は満たされませんでした。どうして人の姿にならないのかと不思議に思った彼は咄嗟に恥ずかしくなりました。「クソが!」と自らを叱咤しながら起き上がります。急に腹の下を焼けただれた鉄の塊に当てられたような衝撃が走り、変な汗をかきました。あーあーと声を上げて、熱くなった頭を搔きむしります。
「ふざけんな。どうせ、あいつと付き合ったってすぐに捨てられる覚悟はもうとっくにあるんだよ……!」
 鼻を鳴らしてようやく落ち着きますと、近くの書斎机に食事が置かれていました。二つのお膳がありますので、朝食と昼食を用意してくれたのでしょう。せっかく食べられる機会があるのならたくさん食べようと種田の食い意地が目に浮かびます。せめて、昼食で半日の空腹を抑えたいと思いましたが、冷え切ったご飯から感じる人の温かみを噛み締めていく内に全て平らげてしまいました。
 転生した当初、本の世界に長く居続けていたせいか、空腹の状態がずっと続きました。現世に転生して血の通う身体を持ち、人間として生きていく為の欲求を思い出したのです。特に食欲は尽きることを知りませんでした。酷い時は真夜中に空腹を覚え、底なしの食欲を抑えるのに大層苦労しました。
 水で胃の中を誤魔化そうとしますも限界を達しました。ある晩、尾崎は人目につかないようにそろりと食堂に向かいました。文豪たちの居住区を潜り抜け、明かりや酒の匂いが漏れる談話室の前を静かに通り過ぎ、もう少しで食堂にたどり着けると思った矢先、司書と遭遇してしまいました。向こうは難儀していた研究が深夜になってようやく落ち着いたので、夜食を作ろうとしていました。
 尾崎は司書の顔を見て脱兎の如く部屋へ逃げようとしましたが、大きな腹の音を隠せずに恥ずかしさに立ち止まってしまいました。一緒に夜食をしようと相手が笑いもせずに、尾崎を食堂へと案内したので余計に恥じらいました。どれだけ馬鹿にしてくれたら良かったのだろうと落ち込みますも、結局尾崎は空腹に耐えきれず司書の作ってくれたかけうどんをすすりました。昆布だしを絡ませた細めのうどんだけでも十分彼の胃を満たしましたが、半熟の玉子はとても魅力的で、絹のように蕩ける黄身の温かさと言ったら、心まで溶け込んでいくようでした。
 たった一杯のうどんで底なしの空腹を抑えられたので尾崎は大層喜びました。「ごちそうさま、すまん」と孤独に慣れてしまった口先は上手く喜びを言えず、哀れな自分を許してほしいと請いてしまいました。
 また一緒にご飯を食べようと司書は微笑んで、食器を片付けてくれました。尾崎はまた誰にも気づかれないように息を殺して自室に戻りました。その時の足取りは軽く、部屋に戻ってすぐに寝られました。
 彼が平らげた二つのお膳には司書が作った物はありませんでしたので、変に淋しい気持ちになりました。あの半熟の玉子をもう一度食べたいな、ああ、でもまた哀れむだろう、謝りたくなる、尾崎は満たされた腹よりも素直になれない胸の空虚に悲しくなりました。
 気晴らしに外の様子を観察しようと、カーテンの隙間から窓を眺めました。すっかり日が昇った昼下がりに、幾人か外に出ています。思わず司書はいないかと探してみましたら、石畳の道の上に立っていました。目を凝らしてみると、木の前にしゃがみこんでいる種田と談笑しているようでした。種田は相変わらず蟻の行列を観察しているのでしょう。奇妙な行動をする彼に話しかける司書に対して、尽きない優しさに改めて恐れを覚えました。
「いやいや、山頭火は蟻に夢中なんだぞ。そんなに構わなくたって、……やっぱあいつ怖いわ」
 遠目で詳しく見れませんが、司書の顔は潜書で出逢ったあの雀に似ていました。雀にはあったそばかすを、司書にも付けてみたらよく似ていましょう。ですが、近くで見ないと分かりません。今なら会えると重くなった腰が彼女が会いたい為に立ち上がろうとします。
「いいや、馬鹿だろう。あいつと会ったって話さえできない」
 よくよく振り返ってみると、司書の助手になった時はよくお菓子をくれました。物を食べている時は、尾崎は隣に司書がいても落ち着けました。何せ話す必要がありません。ただお菓子を咀嚼すれば時間は流れます。美味い、普通、よく分からんと言えば、彼女と会話が成り立ちました。
 アルケミストの助手になれと言われた時は、人の役にも立たない自分とは無縁な仕事だ、何かの手違いだろうと現実を受け入れられませんでした。けれども、だんだんと休憩の合間に彼女からお菓子を貰っていく内に悪くないと、いつしか彼女の傍に居られるようになりました。何もない両手で司書から食べ物を貰う、あのひと時は決して悪くないと、尾崎は頑なに良い方向へと進もうとしませんでした。温かなものを手にしたところですぐに離れてしまう、そんな孤独な感情を誰にも見せてくなかったのです。
「……この感覚、何かに似ているな。あの雀は、本当にあんたなのか」
 窓に映る司書に向かって話しかけました。尾崎の瞳には彼女の姿がずっと張り付いたままです。ふと司書の声が彼の内から聞こえました。
 尾崎は優しくて、あまりにも優しくて人の孤独を理解してしまうから、あえて人を遠ざけているのだろうと。尾崎の句は思わず寄り添いたくなる優しさを感じると、何気ない会話の時に云われました。孤独に詠った句が、より孤独を感じる者にとっては導きの声となりましょう。この句に寄り添っていけば、自分は独りではない、独りぼっちにはならないと自信が溢れていく、優しい歌だと彼女の声が魂の底から聞こえてくるようでした。
 雀のような小さな生命に温もりを感じられる広々とした感性、そして小さき魂を大事にする奥深い慈愛の精神。尾崎はそういう句を作ったからおおぞらのような人だと、大空たいくうと親し気に呼ぶ彼女の声が窓から聞こえました。
 空耳だと尾崎は焦ってカーテンを閉めました。不意に司書と目が合った気がしましたが、気のせいだと口の中で何度も呟きます。そうすれば、本当に彼女と目が合っていない現実になると思えるからです。しかし、喉まで湧き上がった熱い感情を抑えられませんでした。
「淋しいなら淋しいって言えよ、クソが……!」
 笑って泣いているような顔をして尾崎は立ち上がりました。

  淋しきままに熱さめて居り

 引用:『放哉 ―大空― 』尾崎放哉著 日本図書センター出版 2000年発行
 掲載日:2023年01月11日
 文字数:5070字
 BGM/'Blackbirds' Ghostly Kisses

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