「貴方は、優しい人だ。誰が見たって分かるなのに……」
何とも歯切れの悪い言葉でした。司書が広津の顔を覗くと、彼は今にも泣きそうな顔をしていました。一旦休憩をしようと、司書は目に入った中庭の長椅子に広津を座らせます。
捜し物は後にしようと言って服のポケットからお菓子を取り出し、彼に渡しました。
広津は司書に何度もすまないと頭を下げます。結局、謝罪で彼の心を晴らせなかったのでしょう。お菓子を片手に虚ろな目をしていました。
「……申し訳ない。自分は本当のことしか言えない性分だ、貴方に隠し事は出来ない。貴方を人間とは見ていない人物が、この図書館に居ると知ってしまって……、ついその人に怒ってしまったんだ」
広津が司書に無くし物を一緒に捜してほしいと相談する前に、彼はたまたま食堂に居合わせた図書館の職員にも無くし物を尋ねました。すると、その職員はそんな容易いことなんかアルケミストに頼めば良いだろうと鼻で笑ってきたのです。
突然親しくしている人物を侮辱するような発言を聞いて、彼は血をたぎらせて怒りに燃えました。ただし、冷静さを装うことは忘れませんでした。
何故と広津が睨み返したら、その相手は彼の鋭い目付きに臆しませんでした。いいえ、広津の目どころか彼の存在さえ見ていなかったのでしょう。向こうは、文豪が身に着けている物も魂の一部みたいなものだ、そんなのアルケミストが文豪の魂ごと管理しているのだから、錬成陣を使って探知すれば早い話ではないかと、さも当然のように話したと云うのです。
「……まるで物扱いされた気分だ。自分も貴方も、人とは見ていないあの侮蔑な眼差しに堪えられなくなり……、ついカッとなって言い返してしまった――『貴方のような心のない人間に聞いた自分が間違っていた!』と」
言いたいことを言えたのなら心も晴れるだろう、そう司書は広津を慰めますが、彼はそれだけでは駄目だと表情に後悔を滲ませます。
「貴方を守れるような言葉が出てこなかった。……ああ、怒りが足りなかったのか。そんな、まさか、……貴方を人として見ていない者が近くにいるなんて思ってもいなかった。それだから、自分は言葉を詰まらせてしまった。これが、今の自分の正義だと思うと恥ずかしくて、……実に情けない」
司書は彼の背中を優しく擦ります。正義の鉄槌は相手の魂さえ圧し潰す覚悟を決めた時だけだから、今は気にしなくていいと言いました。しかし、どんなに撫でても、彼の背中に熱は籠らず冷え切っています。いつものように柳の葉のように真っ直ぐ伸びる背筋も、今は魂が抜けたように力が入っていません。
「貴方は本当に献身的な人だ。こんな自分にも手を差し出してくれるというのに、自分は……!」
広津は未だ侮蔑の言葉を吐き続ける人物の幻影に囚われています。侵蝕者とはまた違う負の感情の影に、どう闘えばいいのか戸惑っていました。
これ以上広津を慰めるのは難しいだろうと、司書は諦めの表情を見せます。思わず、人間扱いされていないのはもう慣れていると言ってしまいました。広津はすぐに否定しました。
「司書さん、慣れてしまっては困る。人の魂を救えるのは人にしかできない。それを証明したのは貴方の力があってこそだ」
必死に司書を守ろうとしますが、司書は彼に対して素っ気ない態度をしました。アルケミスト同士でも自身を同じ人間だと思われていないと続けて言います。生き物をよみがえらせる術を手に入れた神のような天才と見て取れば、命を弄ぶ禁忌の力を手にした化け物と見られていると、彼女は嫉妬と侮辱を吐く影を今の今まで延々と目の端で睨んでいました。
「…………どうすればいい。自分は、もう貴方を勇気づけられるような言葉を思い浮かべられない」
とうとう広津は泣いていました。途方のない道の上で迷子になったような寂しい顔をしています。司書はお菓子を口にし、ただ食べるという動作を機械のように繰り返していましたので、彼の涙にやや遅れて気付きました。物を噛み締めていれば、脳の中で咀嚼音が反響し何も考えられなくなります。今日もその日が来てしまったかと、彼女は口の中で溶けずにいる液体と物体の間の何かを噛み続けました。
そうしている時に、広津が泣き出したので司書は慌てて飲み込み、傍にあった水筒からお茶を出して彼に勧めました。そんなに泣いては、泣きたい自分の涙さえ乾いてしまうと冗談交じりに苦笑しますが、広津は鼻を啜って悲しみました。
「貴方の為に泣きたい。もう自分にはそれしかない」
洋墨で造られた皮膚の上に、彼の涙が伝わっていきます。まるで葬式の棺桶に居るようだと司書は広津の涙を指先で拭きました。冷ややかな肌よりも、涙の方が幾分温かいです。舐めてもいないのに、指先から塩辛い涙の味が伝わってきました。そのぐらい彼の涙は、純粋で素直な心のように透き通る色をしていました。
広津は突然何かを思い出したように、司書から身を引きました
「す、すまない……。貴方の顔に、涙をかけてはいけないな。自分の未練が残ってしまう」
それでも司書は彼の顔を両手で包み込み、涙が止まるのをじっと待ちました。人間として見らなかった未練なんてどうでもいい、広津の涙を止められない未練だけ残すのは嫌だと、真っ直ぐに彼の瞳を見つめます。広津のように本当に為すことをしたいと、司書は彼が泣き止むまで待ちました。
