「一緒に捜してくれてありがとう」

012/第二話 No.018 広津和郎『さがし物』

「優しくて、苦しいな……。何も為せない自分の代わりに貴方が為してしまう。やはり、気勢を上げるだけでは何もできない」
 広津は瞬きをして涙を払い落とします。鼻から大きく息を吸って、鼻孔に溜まった鼻水を乾かしました。軽く咳ばらいをして、「もう大丈夫だ」と司書の目を真っ直ぐに見つめ返します。涙を溜めて一層冷ややかに陰った青い瞳は、今は見ている者の瞳にさえ光を灯す炎のように輝いていました。
「困った時は下を向くよりも、上を見るのが良い。下を向いたって己の肩幅しか物事が見れなくなるからな。……全く、自分が言ったことなのに、何故今の今まで忘れていたのだろう。貴方のおかげで思い出せたよ」
 彼は涙声ながらも背筋を伸ばして立ち上がりました。春の夕暮れに向かって顔を上げます。日は暮れていくというのに、春の温かさでこれから訪れる宵闇にさえ希望を見出せそうな清々しい気分になりました。
「きっと我々が人間かどうか見られるのも、決勝点のない道なのだろう。この道はきっと今まで侵蝕者と闘ってきた時よりも、遥かに勝利の区別が明確ではない。……だが、それでも闘い続けていく。この新たな生が新しい人間の形だと証明するのが、今の自分に課せられた使命だ」
 司書も立ち上がって、広津の背中を軽く叩きました。相変わらず何事においても真面目だと言い、いつもの彼が帰ってきて喜びました。例え勝ちのない闘いであろうとも、自身を人として親しくしてくれる広津がいるから幸福だと彼女は微笑みます。
「そんな……命の恩人に親しくするのは、当たり前だろう」
 そう彼は言いつつも、自身の存在を幸福だと言われ、思わず面映ゆくなりました。
 広津の照れた表情に笑みが戻った今、司書は彼の捜し物を再開しようと切り出します。まだ鼻先が赤い広津は元気よく答えました。この、誰かに優しくされている時間が、父親と過ごしている時の幸福に似て嬉しいのです。
 彼が一歩前に足を踏み出した時、おやと首を傾げます。そういえば、捜している万年筆を以前から首に引っ掛けていたなと服の下に隠れていた筆入れを取り出します。春の穏やかな夕陽の下で筆入れをよく見れば、広津の捜していた万年筆がそこに仕舞われていました。
「あっ、こんなところにあったのか」
 司書はそこにあったのかと笑いながら広津の背中を勢いよく叩きました。叩かれた衝動で広津は、司書から貰った筆入れの出来事を思い出します。
 愛用品や貴重品さえ落とす癖がある広津を慮って、司書は先日紐が付いた革製の筆入れを贈りました。
 彼の落とし物の中で、一番に落としてしまうのは万年筆です。特に転生した時から持っていた万年筆は、彼の身体の一部のようなものです。その大事な万年筆さえ落としてしまうので、よく周りから心配されていました。
 特に彼を子どものように大事にしている泉は、広津に会うたびに「ちゃんと万年筆を持ちましたか」と心配そうに聞いてきます。外に出かける前にハンカチを持ったかと尋ねる母の小言みたいで、広津は聞かれる度に恥ずかしくなりました。
 とうとうある日、広津は司書に万年筆を落とさない方法は無いかと誰にも聞かれないように相談をしました。その結果筆入れを持つことになりました。筆入れは、彼の手に収まるほどの持ち運びの良い大きさで、真ん中には柳の葉が金色に箔押しされています。
 彼の父の名前にもある柳を見て、広津は大層気に入りました。本当に気に入ったようで、絶対に落としたりしないと貰ったその日から筆入れを首に掛けました。
 服の下に隠れた筆入れは、最初肌着の上をスルスルと滑るように揺れていました。最初は冷たかった革もだんだんと広津の温もりに馴染んでいき、また革も皺やヒビが入り、やや滑りが悪くなって肌着にぴったりとくっつくようになりました。そして、いつしか身体の一部のようになっていました。
 あまりにも肌に馴染んでしまったので、広津は服の下にある筆入れや万年筆の存在をすっかり忘れていました。そういえば、以前眼鏡を無くした時も司書に尋ねたら、頭の上に引っ掛けっていただけだったと一人噴飯します。
「ははっ。司書さん、何度も何度も申し訳ない。自分の至らなさに振り回されて散々だったろう」
 司書は、広津のうっかりな一面を見てずっとお腹を抱えて笑っていました。さすがに笑いすぎだろうと広津は苦笑しますが、怒られるよりかは幾分良いだろうと今度は彼が司書の背中を擦りました。
 心臓が楽しそうにころころと転がっているような振動が背中から伝わってきます。じんわりと温かくなる感触に、彼はいつまでも触っていたい気分になりました。
「一緒に捜してくれてありがとう、司書さん。貴方のような優しい人がいて自分は幸せだ」
 司書も一緒に捜してて楽しかったと礼をしました。広津の筆入れを触り、その温かさに大層大事にしているのだなと微笑みました。魂が宿っているような筆入れは、黄金の柳の葉を色濃く照らします。その鋭い葉先を司書が触れても、柔らかく跳ね返してくれました。
 柳の葉を触れているのに、広津がくすぐったそうに身をよじります。可愛い人ですねと司書が茶化して言いますと、「そうか……自分は可愛いのか」と真に受けてしまいました。
 恥ずかしさから変に汗をかく広津を見て、司書はまた笑いました。
 何度見たって、涙も汗も流せる人間が今目の前にいます。例え洋墨から生まれ出たものだとしても、呼び覚ました魂の中に、確かに彼の血潮が健やかに流れているのです。

 掲載日:2023年04月27日
 文字数:4397字

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