「どうか、私と一緒に寝てください」

013 No.014 川端康成『母の鼓動を知らぬ子ども』

「司書さん、貴方は良い人ですね」
 川端の語る僅かな言葉から、司書は彼の本心を探ろうとします。愛する者の片腕を撫でるのは、彼の作品を読んだ影響なのでしょうか。作品にしてまで残したかった愛する者とのひと時を、生まれ変わった川端にもしてあげたいと思ったからなのでしょうか。いいえ、司書からしたら、ただそこに彼の肩や腕が視界に入っただけで、触れるにはちょうど良い場所にあっただけにすぎません。
 彼の心を読み取った司書は、手を引っ込めて謝りました。家族のように甘えたかったのは彼女の方でした。
「良いんですよ、私なんかに甘えても」
 川端は彼女の謝罪の意味を十分に理解してらしく微笑んでいます。人に頼られた喜びに胸をくすぐられているようで、くすくすと笑っていました。
「……旅先で見かけたのですが、子どもを寝かしつける母親は、確か……こうしていました。自分の魂を撫でるかのように――」
 川端から頭を撫でられたので、司書も真似をしました。彼の髪を梳かしながら、自身の魂を磨くように撫でてみました。
「……そう、そうです。司書さん、上手ですよ」
 次に、川端は司書の肩を撫でました。服の下でも分かるのでしょうか、魔界さえ見通せる彼の瞳は、彼女の腕の産毛に沿って愛撫を繰り返します。毛の流れに沿って気持ちよく撫でたかと思えば、流れに逆らってわざと寒気を引き起こさせました。
 心地よさと不快さの繰り返しに、司書は彼の手つきに虜になりました。犬も鳥も人も愛した者の手は、心地よい冷たさでした。川端の柔らかな手に何度も撫でられ、彼女はいつの間にか眠りに落ちていました。
 部屋の中を行灯が微かに照らしています。布団の上で二人一緒に横になっているはずなのに、川端は孤独を感じました。まだ彼女の腕に置かれた手は、一向に温かくなりません。人や獣を愛でようが、胎児を掬い上げようが、母親の温もりを知らない身体はずっと冷えたままでした。
 横になって、何度寝返りを打っても寝られません。生まれた時から母の胸に抱かれなかった現実が、今も彼を苦しめます。頭上にある薬箱の中で、錠剤がいやらしく光ります。川端は、自分は眠れる美女でもその美女を貪る老人でもないと、否定して薬を無視しました。
 さあ眠れと身体に言い聞かせるように瞼を降ろします。目を閉じていると、司書の寝息が背中から聞こえました。耳をそばだてないと聞こえないほどに、小さく弱い寝息でした。近くに寄って彼女の寝姿を確認しないと、本当に眠っているのか分からないぐらいです。川端よりも死体に見える、そう思ってしまうほどに怖いぐらいに静かでした。
「…………本当に寝ていますか、司書さん」
 彼は寝返りを打って、彼女の方に身体を向けました。彼女の瞼はちゃんと閉じられています。寝息を立てるたびに、睫毛が微かに揺れ動き、髪の毛もはらはらと頬や枕の上に流れ落ちました。髪や肌の艶から生命の脈を感じられます。
 もう一度司書の腕に触れますと、皮膚の毛穴からも寝息が漏れていそうなほどにとても温かでした。生きたまま寝ている、そんな当たり前のことが川端を感動させました。薬にも頼らず、隣に男がいるにも関わらず、眠りに従って寝息を立てるその姿は何と素晴らしいのでしょう。健やかな血潮が司書の腕を伝って、ついに彼の手を温めました。
 これで眠れそうだと安堵した川端が、彼女の胸元を見て驚きました。着崩れた服の首元から、わずかに胸が盛り上がっていました。ああそういえば、彼女は女だ、女の形をした人間だ、そう気付いてしまった時には、温まった手から血の気が引きました。生まれ変わった時に埋め込まれた性が、胸を噛みたいと興奮しています。せっかく眠れるはずの母の胸になれたというのに、興奮が全く冷めません。
 けれども、それだけなら別に良いのです。問題なのには、そのはみ出た胸元に当てられた指先たちです。眠っている彼女は、胸の上に手を当てています。右腕を下にして寝ているので、胸の上には左手が載っていました。いくつか折り曲げた指を胸に当てていますが、何故か小指だけ肩や腋の肉に埋もれていました。四本の指から離れている親指さえも胸の肉に当たっているというのに、小指だけ寂しく埋もれています。やはり、血にも濡れない小指だけが一生孤独なのかと、川端の身体は完全に冷え切ってしまいました。
 彼は司書の手を掴んで小指を噛みました。血がにじむほどに噛みます。痛みに司書は起きましたが、寝ぼけて指を噛まれたことに気付いていません。血だって出ているのに、健やかな眠気に瞼を下ろします。
 彼女の寝ぼけ眼に映ったのは、川端が自分の手を握って口づけをしていました。そう見えていました。幼子が自分の指をくわえて眠る、そんなことを川端がしたいのだろうと彼の為すがままに自身の手を捧げたのです。
 川端は絶句していました。男の口で噛んだ女の肌は、絶対に血が溢れるのです。出血した彼女の小指を舐めましたが、その後は全く血が流れませんでした。小指だけどうしても血に濡れません。残されたのは、孤独な者の空しい唾液だけでした。
 もう一度司書の胸元を見ました。既に薄手の毛布に隠されていました。もう二度と、母の胸として見ることも出来なければ、その胸に眠ることさえ叶いません。
「寝かせてください。どうか、私と一緒に寝てください……」
 母の名を呼びました。朝日を迎えても、誰も答えてくれませんでした。

 掲載日:2024年01月22日
 文字数:4131字
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