一話・No.083 ボードレール『嗅覚にこびりつく面影』
「君は今から僕の古臭くなった芳しい香水壜になるんだ。そう! 埃をかぶった花薫る香水壜に……」
 彼から言われる前に、司書の口元にはボードレールの毛先が当てられていました。きつく緩く編まれた三つ編みの先には、石油のようにどろっとした洋墨が毛先に垂れています。彼女は鋭く湿った毛先を当てられくすぐったいと身をよじりますも、脈を感じる肌とは違い、呼吸さえ感じない髪の毛の冷たさに鳥肌が立ちました。
「この国の言葉には『死人に口無し』とあるらしいが、こうも洋墨で真っ黒になった唇を見ると確かに暗い穴がただそこにあるだけだ。口が無い、あるのは暗闇だけ。何か言いたげな穴は何も言わずにぽっかりと開いている。ふふっ、僕はこの穴を醜くとても愛おしく感じる」
 彼女の唇を象って洋墨をみだらに塗ります。今にも滴り落ちそうな洋墨を半紙ではなく、ボードレールは自身の手の甲で軽く拭きました。鮮やかな葡萄酒色の手袋には、彼女の昏い唇の跡が寂しそうに残っています。彼はその黒い口づけの名残に唇を触れました。どことなく臭う洋墨に嫌そうな顔をするも、夢現に香る彼女の優しい体臭に笑みをこぼしました。
 司書はボードレールの笑みを不快そうな表情と認識しました。嫌なのか好いのか全く見分けられない彼の表情をじっと見つめ、何か言おうとしましたがすぐに止めました。生身の人間が潜書する際に使う洋墨を文豪から塗られた後、決して言葉を出してはならないという規則を思い出します。
 司書は手袋に付いた口づけの跡から離れて早く潜書しようと言いたかったのです。目の前で、自分に似た何かとボードレールが口づけを交わしているように見えて、恥ずかしくて仕方ありませんでした。ただただ恥じらっていたのです。
「……何だい、時間が惜しい? 相変わらず生真面目な君は時間にも酒にも己の魂にさえも酔う暇がないようだね。でも、僕には必要なんだ。この口づけは愛しい毒のほんの一滴にすぎない。この一滴から漂う香りはどんな物質も通り抜く強さを持っている。砕かれる以外許されない硝子壜さえも、灰になる以外手段がない箪笥さえも、そして、棺桶に眠らない魂さえも貫くその香りの強さと言ったら! ……まあ、下手くそだがまあまあ好いだろう。君はよくもまあ僕の香水壜になりきっているよ」
 有魂書となった彼の著書の中に、歯車はあれどもどうしても自身の魂に入りたがらないものがあるようです。そういった歯車を回収するには、著者に関わっている他の文豪、時にはアルケミストの力が必要となります。他者の歯車と著者の歯車を噛み合わせれば上手い具合に回り出し、自身の魂の中に入り込んでいく、そんな仕組みです。
 今回、ボードレールは司書を選んだようです。その歯車に一度触れたボードレールは、脳裏に潮風を運ぶ波のように揺蕩う黒髪を思い浮かべました。噛んでいくごとに思い出に浸れる髪の毛の誘惑に、彼は心が震え興奮し恐れました。
「やっぱり黒髪は良い。いや、黒こそ良いんだ。僕を愛するように侮蔑するあの漆黒と言ったらたまらなく不愉快だ……!」
 ボードレールは恍惚そうに天井を見上げます。天から何か振り落ちてくるのを期待しているようで渇いた声で笑いました。いつまでも笑っているので、司書はボードレールの腕を引っ張りました。妄想の闇を邪魔されて彼は怪訝そうに彼女を見下ろします。未だ言葉を出せない彼女の瞳から、貴方は恐れを感じているのかと訊ねられます。
「はっ! いや、気分が良いよ。恐れさえ感じられる程に僕の身体はすこぶる健康だ。今すぐに蜘蛛やら蝙蝠やら爪を引っ掻く猫の元に飛び出したい!」
 彼は昂る気持ちに乗って、司書の腕を掴みさっさと有魂書に潜書しようと本の前に移動しました。司書はまだ待って欲しくて強く握ってくる彼の手を軽く叩きました。彼の激しい感情から病的な死の気配を感じ取ったのです。行きたくないのに行かなければならない、全くの矛盾にボードレールは苦しみながらも楽しんでいました。
 彼は近くの椅子に向かって司書を乱暴に押し倒します。突然の出来事に司書の背中に痛みを感じますが、彼女は歯を食いしばり悲鳴を喉奥に押し込みました。激しく彼女を突き飛ばしたからでしょうか、ボードレールは息切れを起こしています。病人が悪寒や病魔に苦しむ様子によく似ていました。
「……生きている奴らなんかよりも、死んでいる人間の方が上手くいけると思ったのだが……。君が死んでも、僕とはどうも上手くいかないようだ。君は僕の香水壜だ、それ以外でも何者でもない。良いから、僕を酔わせる……強い匂いを……匂いを、叫び声のように立てればいい。頼むから」
 司書は何度も文豪たちの為に有魂書に入ってきました。その度に特殊な洋墨を彼らに塗ってもらいました。潜書する前の彼らの様子は色々ですが、大体は妙に落ち着いているか変に気が立っているかのどちらかです。ボードレールの場合は、どちらも当てはまります。妙に落ち着きがあるようで、けれども変に気が立って仕方ない、その不安定な狭間に苦しみもがいています。
 彼女は落ち着きのないボードレールに怯えます。彼に叩かれるのか、はたまた激しく抱きしめられるのか、一体どちらをしたいのでしょう。彼は現実を直視できずにいながら、夢の中に入ることさえ恐れています。


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