夢の中で愛される者に特別な扱いを受けたいが本当は現実で飛びっきり愛されたい、けれども現実では周りの人間と同じように普通に接してほしかっただけなのに、なかなか言えずに夢に逃げて普通の良好な人間のように寝て忘れたい、――でも、病気が忘れさせてくれない。
普通でいたいのに特別でありたい願いは片親だけでは物足りないのです。父も母も一緒にいる、特別で、ごく当たり前な愛情ある空間を彼は今も欲しています。
ボードレールは右半身だけピクリとも動かずに立ちすくんでいました。先ほどまで饒舌であった舌も上手く回らないのでしょうか、ずっと黙ったままです。言葉を失っている様子が、明らかに彼の方が死人のようでした。
虚ろな彼を心配し、司書はおそるおそる服のポケットから手帳を取り出しました。必死にページを捲っている間、ボードレールに髪の毛を触られました。指に絡ませて遊んでいるかと思えば、急に引っ張り出して悪戯をしてきました。「ああ、馴染まない馴染まない、ひとつになれない」と言葉を振り絞る彼に髪を食べれそうになります。毛先を舐られる前に、司書は見開いたページを勢いよく彼に見せました。エドガー・アラン・ポーの『アナベル・リー』の詩が書いてありました。
ボードレールはしばらくその詩と彼女の眼を交互に見て、ようやく司書の言い分を理解しました。「夢の中の金色の髪って、君ね……」と司書の髪を舐めながら、なかなか納得がいかずに思案に暮れていると突然思い立ちました。視線を逸らさずにいる彼女の顔を見つめていく内に何か良い案が浮かんだようです。閃きの勢いのままに、ボードレールは有魂書の中に潜りました。
司書は彼に髪を引っ張られながら本の中に潜り込んだので、何本が抜け落ちてしまいます。はらはらと地面に落ちた髪は金色に輝いていました。本の世界を照らす光が髪を黄金色に染めているのでしょうか。すると、先程から彼女の髪に顔をうずめているボードレールが見てごらんと金色の髪の毛を見せつけてきました。
「悪くない、うん、悪くないね。……なんだ、簡単じゃないか。やはりポー様は素晴らしい! 僕が今いる世界は夢の中。腐りきった甘い思い出の中。別に過去の足跡を辿る必要はない……。だって、現実よりも夢こそが真実を照らしてくれる。僕を導いてくれる。ポー様だってそう言っていたじゃないか。……ああ、君の髪を黄金色に変えるのだって簡単だったじゃないか、本当に!」
ボードレールは司書を力強く抱きしめました。自分だけの香水壜と称しておきながら、無機物に対する愛情を遥かに超えています。頬ずりをしたり、軽く肌にキスをしたり、彼女の胸に甘えたりと無邪気な子どもになったかのように見えます。
親のように親しまられた司書は彼の背中に腕を回して愛撫します。最初は、気紛れな猫が急にじゃれついてきたように思えて、ようやく掴み取った幸福と散々振り回された疲れに困惑していました。機嫌が良くなったボードレールを今一度抱き締めます。
彼の服から浮いて出ているろっ骨を触りながら、酷く脆い華やかな楽器を奏でているような気分になりました。なるほど、これがランボーの言っていたヴァイオリンなのでしょう。触れるたびに、ボードレールの口元から悲し気な吐息が聞こえます。
彼は司書の耳元で「あそこにある歯車が見えるかい」と寂しそうに言いました。振り返った彼女の視線の先には、文字が舞う白い空間にぽつんと歯車がひとつ浮いていました。宙に浮く歯車は、白と黒の入り混じった灰色の光の中に輝いています。ちょっと歩けば取れそうな距離にありますが、ボードレールから見れば大海を挟んだ遠い先にあるように見えています。あそこに行きたくないと司書から離れようとしませんでした。
