四話・No.083 ボードレール『嗅覚にこびりつく面影』
 別に今は彼の香水壜だから、目を合わせって恥ずかしくないだろうと考えますが、背後から感じる無機物と有機物の中途半端な彼の体温に居心地が悪くなりました。やがて、司書の健やかな温もりがボードレールに伝わったのでしょう。ようやく気持ちが良い人肌のぬくもりがベッドの上に広がりました。
「…………君にだけ話すが、女の髪の匂いを嗅ぐのが子どもの頃から好きだったんだ。何故かって? 女の髪は海のように広大で憂鬱な夢を見れるからさ。髪を噛めば、魂は異国の地へ飛び立ち、麝香と椰子の油に満たされた熱帯地方の空を漂う……。まあ、……僕も恋しくなる時もあるからこの黄金色のような髪を噛んでいると化粧品とバターの甘く焦げた匂いに満たされたパリの空にも旅に出たくなるんだよ。今は、君の髪を噛んでも埃被ったあの図書館しか思い出せないけれどね」
 窓から見えた朝陽はいつしか消え失せ、夜になっていました。燈灯ランプも無い部屋の中は真っ暗でしたが、司書の金色の髪だけ輝いています。ボードレールは眩しそうに目を細めて、寝られないよと愚痴をこぼしながらも彼女の髪を嗅ぎ続け、噛み続けました。もう一度昇った朝日が沈んで月が顔を出した時、司書はこのまま永遠と髪を噛み続けたいのかと彼の思惑を見抜きました。ボードレールは本当に香水壜の匂いで生きて死にたがっているのでしょう。
 司書は彼の方に寝返りを打ちます。まだ口元には洋墨が塗られているので目で訴えました。今この時が名残惜しいのかと。
「思い出に浸っているから名残欲しいのは当然だろう。ははっ、君も矛盾を言うんだね」
 心から安堵し微笑んだボードレールはもっと司書の髪を噛みました。女の乳房を舐めているような、気味の悪さと赤子のような可愛らしさがあります。名残惜しいのなら、貴方にとって好い思い出になったのだろうとじっと彼の瞳を見ながら、司書は起き上がりました。夢から醒めようと行動で示します。
「仕事をしたいから帰りたいだけじゃないか。全く相変わらず真面目だね、君は」
 ボードレールが言った皮肉を司書は真摯に頷きます。意表を突かれた驚きに思わずベッドから飛び起きました。本当に仕事の為に帰るのかと、目を見開いて訴えます。司書は、今度はしっかりと頷き彼の頬に口づけをして、彼の手を引いてベッドから一緒に下りました。
「冗談ぐらい言ったって良いじゃないか。帰る素振りを見せながら本当は帰りたくないって、気紛れな猫を飼いならす女のように見せたって良いじゃないか」
 駄々をこねる彼に声を出して笑いたかったのですが、司書は肩を震わせて我慢しました。この日が二人だけの思い出になるのでしょう。いつまでも彼とこうしていたいと司書も願っていましたが、この名残惜しい思い出は、今後二人が語らう時に飛びっきりな愛情となって蘇るのです。
 ボードレールは口を尖らせるも、司書の手を強く握ります。本当は彼が一番帰りたかったのでしょう。埃臭いと言いながらも、徐々に化粧品とバターの匂いが混じってくる図書館に戻りたかったのです。
 取っ手の壊れた扉をくぐれば、二人は有魂書から図書館へ戻れました。後ろ髪を引かれる思いが、ボードレールに降りかかります。そんな彼を窺って、司書は未だ扉をくぐらない彼の髪を持ち上げ噛みました。扉の先にいますので、もう口を開けていいのです。貴方の髪はしょっぱい味がすると苦笑します。ようやく扉を潜り抜けた彼も親し気に苦笑しました。
「何を言っているんだい、君。僕の髪は塩辛い海なんかじゃないだろう。ヴァイオリンの弦、薔薇の蔓、それに悪の華の脈絡さ」
 いいえ、貴方の血と涙の味がすると司書は洋墨を拭って、今一度ボードレールの髪にキスをします。毛先まで神経が通っている彼は司書の唇から伝う鼓動に身をよじりますが、人に愛される喜びを密かに感じていました。
 当たり前の触れ合いから生まれた愛情が至福の思い出となりますので、その愛情を覚えてしまった彼はいつまでも普通にも特別にもなりたいと願い続けるのです。普通でいられる人間はそうそういないのですよ。

 Cher poison préparé par les anges! liqueur
 Qui me ronge,ôla vie et la mort de mon coeur!


 引用:『ボードレール全集1 悪の華』ボードレール著 阿部良雄訳 筑摩書房出版 1983年発行
    『巴里の憂鬱 改版』ボードレール著 三好達治訳 新潮社出版 2008年発行
 掲載日:2023年02月09日
 文字数:7300字
 BGM/'Flower that doesn’t give the heart' Seo Woong Seok


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