三話・No.083 ボードレール『嗅覚にこびりつく面影』
 司書は、自分は香水壜だからこの匂いと一緒に乗り越えればいいだろうと、思いを手のひらに込めて彼に触れて励まします。魂をも貫く強い匂いを発する香水と一緒なら頼もしいだろうと胸を張りました。彼女の瞳をずっと見つめていた彼に一笑されます。
「その匂いが強いからこそ、君から離れたくなくなるんだ。離れれば離れるほど、愛しい毒が夢の中にも入ってきて僕を絶望に誘惑する。……まあ、君の自信に応えてちょっとは信頼しても良いかな」
 そう言ったものの、ボードレールは一向に司書から離れようとしません。苦悶の声を上げながら、彼はようやく歯車の元へと歩みました。目の前には洋墨のような昏く、重く、先の見えない靄がかかっています。地平線さえ見えぬ大海が眼前に広がっているようでした。立ち止まって引き返したくなります。振り返って司書に助けを請いました。ボードレールの表情に心の底で押しつぶされていた悲しみが表れました。
 彼女はその悲しみを認めて、涙を流しました。同情したから泣いたと言っても良いのでしょう。実際は、司書の魂の中にある歯車が彼の魂の歯車と噛み合って、泣きたい彼の代わりに涙が出ました。
 彼女の涙を見てボードレールは泣きそうな笑顔で歯車を掴みました。ほんの目の前にありました。それでも彼の視界には、将来も見えない、家族もいない、自分自身さえも見失った昏い航海があったのです。手を伸ばした途端、航海は女の黒い髪となって彼の口元をくすぐってきました。噛んでほしいと誘っています。しかし、彼は軽く舐めただけですぐさま走り去りました。
「ほ、ほら、簡単だったじゃないか」
 ボードレールは声を震わせながら簡単だったと言葉を繰り返し、司書にしがみつきました。とても怖かったのでしょう。司書はよくできましたと笑顔を見せましたが、彼女の顔から褒め言葉を読み取った彼は「当たり前じゃないか」と突き放して馬鹿にしました。どうしても、特別な人間として認めてほしいのに、普通でありたいと願ってしまう弱い心が邪魔をしてきます。たった一人の特別な人間になりたいと認めてもらうには、まだまだ時間が必要なのでしょう。
 本当は歯車を取った瞬間に痛み出した胸を司書に診てほしくてたまりませんでした。心臓を突き刺そうとしたナイフの痛みがボードレールを再び苦しめます。金属が肌を喰い破る痛みよりも、勇気も覚悟も無かった心の弱さに圧し潰されそうです。けれども、彼は痛みに愛撫されているといつもの矛盾めいた考えを思いつきました。苦痛な顔をして楽し気に声を上げます。
「ふん、気分が良いから君に詩を贈ってあげようじゃないか。錆びらずに腐り果てていく金色の香水壜よ、君に詠ってあげよう。この詩を!」
 そう言って彼はフランス語で詩を詠いました。翻訳された書物から転生された海外の文豪なら、和訳の著作を読み上げられますし、原文も言えます。ただ、司書はフランス語を最近彼から学び始めたばかりなので、母国語で詠う彼の詞を上手に聞き取れませんでした。何より、ボードレールはいつもより興奮しています。彼の詠う詩は、口の広いグラスに注がれるワインの健やかで病的な流れのように止めどなく溢れていました。
 ついにリキュールという言葉を聞き取れた時には、すでに詠い終わりました。ボードレールはどこからか取り出したのでしょうか、筒の細長いグラスワインを片手に窓から差す陽光をかざしていました。
 いつの間にか、二人は文字が象る廃墟のような部屋の中に立っていました。人の手入れの行き届いていない古びた箪笥やベッドの上に埃がかぶっています。その中に立つ彼の姿は何とも不釣り合いでした。しかし、熟された薔薇の葉のような緑色の髪に取り付く埃を見ていると何故か馴染んてきました。
 窓から差す光が、空中に舞う埃を星屑のように輝かせています。ここは彼の家なのでしょうか。現にボードレールは慣れ親しんだ我が家のようにベッドの上に気持ちよく座りました。塵芥なんて気にも留めていません。ベッドの下の暗がりに隠れていたネズミや蜘蛛が、飛び出して来てもただ笑うだけでした。
「さあ、来たまえ。僕の香水壜。この朝陽の下、微睡の中で君を眺めようじゃないか」
 グラスの中を飲み干したボードレールに、司書は何を飲んだのか指を差しました。
「君の一部だよ。僕の魂でもあり、僕を殺すものでもある……」
 近寄ってきた司書の腕を掴み、彼は寝転がりながら彼女をベッドの上に寝かせました。司書は、自身の一部と言われて奇妙な気分になりましたが、よくよく考えれば今は彼の香水壜なのです。先ほど彼は香水を飲んだのでしょう。いや、そうだとしてもお腹に良くないのではとボードレールの方に顔を向けました。朝ぼらけの清々しい紫の瞳とすぐに目が合いましたので、再び寝返りを打ちます。あまりにも眩しかったのです。

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