一話・No.013 森鴎外『獅子の咆哮、百年経ても遠く響く』
 森林の奥に獅子が堂々と闊歩していました。柔らかそうな耳は梢と葉が擦れあう音から何かを聞き取ったようです。その音に頷くように、今度は鋭い目付きで木々を睨みました。鳶よりもよく見える瞳は木の頂きから根本、それこそ土の中にある根の先まで見通しているようでした。顕微鏡や虫眼鏡を覗いたかのように、木々の細部まで調べ尽くした獅子は更に暗緑色しかない奥深くへと進んでいきます。
 あれが詠み継がれてきた自分の姿かと森は木陰に立っていました。彼の傍に居た司書は、最近になってようやく獅子の近くで一緒に森林を眺められるようになったと嬉し気に語ります。だからこの文が書けたと近くにあった木の幹を撫でますと、洋墨色の文字が空中に滲むように浮かび上がりました。
「『緑色の中に緑色でえがかれたようになるまで、ずっと森林を見つめていた』……どこかで聞いたような一文だな」
 司書は『沈黙の塔』であると言いました。何故そのような題から真似て書いたのかと森に聞かれますと、妙に頭の中に残っていたからだと苦笑いしました。
 「まるで貴方もあの塔を見ていたような感想だ。灰色に見えたか」しっかりと見た訳ではないが、白に近い灰色に見えたと答えます。「……そうか。あの塔の中にいる彼らは少なくとも救われた気持ちになるだろう」
 二人が歩いている木々の間に、一筋の風が吹き抜けました。切れるような鋭さを感じたかと思えば、柔らかな匂いを漂わせていました。司書は心地良さそうに髪をなびかせて歩いていますが、森は居心地悪そうに辺りを警戒しながら彼女の跡をついて行きます。
 森は司書が書いた書物の中に潜書していました。司書自身は書物の中に宿った魂の一部です。当の本人は今頃昼寝でもしているのでしょう。
 森と出会って五年の歳月を経ち、司書は文豪森鴎外という人物を自分なりにまとめてみたくなって、一冊の本をしためました。アルケミスト達が自身の研究を本に書き残して公の目から隠したり、後世同志にしか解読できない暗号や寓話等をを伝えたりする為の工夫をこの本にも施しました。この本に記された秘密を見張る守護者は彼らが見つけた獅子です。今は守護者として務めを果たせるか、遠く離れた場所から獅子を観察しています。
 獅子は日向が良く当たる場所に咲いていた小さな花を嗅いでいます。どうやら花を摘みたいようですが、獣の手では器用に摘むことが出来ず、寝転がってたてがみに擦り付けました。たてがみには、道中で見つけたであろう種々様々な草花が咲き誇っています。
 「牡丹があれば上等になれるな」と森は冗談交じりに笑いましたが、司書は真摯に応えて頷きます。獅子は森の魂から生まれたようなものですから、大輪に赤く咲く牡丹は彼の尊厳さや慈愛を表現するにはよく似合っていると想像しました。
「…………たった一輪で構わない。一輪だけでいい」
 森は司書の想像を既に見通していたようで、楽し気に想像を膨らませている彼女の頭を優しく撫でました。きっとあの獅子もたてがみに付ける牡丹は一輪だけで良いのだろうと獣の行く先を眺めました。
 すると、彼の考えを見抜いたのでしょうか。獅子は森に振り返りました。鋭い眼光をこちらに向けられましたので、森は思わず身構えました。ですが獅子を睨み返しましたら、何だか鏡を見ているような不思議な気分になりました。誰しもが胸の中にある鏡が、今獅子の姿となって森の目の前に映っています。
 遠くから眺めると精巧に作られた美しい芸術品に思いましたが、近くで見ますと目鼻の歪さが嫌に目立ち、見れば見るほど不格好でした。やはり自分の作品を鑑賞するよりも、他人の作品を鑑賞する方が好きだと森は一人頷きました。
 獣の何か言いたげな瞳を見つめて森にはひどく理解できましたが、やはり誰にも理解されない孤独には耐え難いものがありました。森も何かを口に出して言いたい素振りをします。司書の頭を撫でていた指は、筆先のように構えて何か文字を書こうとしました。
 獅子は振り絞る喉の奥から低く唸り声を上げて、辺りの木々の梢を震わせますと落ちていく葉の間をすり抜けて森林の奥へと歩き出しました。しばしの間、頭上から降ってくる葉音だけが周囲の空気を震わせます。
 あの姿こそ、自分が惚れた森であると司書は声を出しました。「どんな姿なのか詳しく訊こう」森は語れば語るほど照れ隠しして笑う司書をじっと見つめます。恥ずかしさを建前に隠された彼女の真意を見抜こうとしたのです。
 そもそも森鴎外という文豪を知ったのは、高校時代の国語の授業であったと司書は語り始めました。教壇で取り上げられた『舞姫』を読み終えた後の休み時間、同級生たちと作品の感想を言い合う機会がありました。


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