授業の音読で聞いた不可解な古語や現代では伝わっていない難読の漢字に戸惑う生徒もいましたが、何より主人公太田豊太郎とエリスの顛末に異を唱える者が多かったようです。特に二人の関係を悪化させた人物は一体誰なのか、犯人捜しのように皆興奮して話し合っていました。当時はエリスと同じ歳の女子生徒がいましたので、彼女の悲惨な最後をどうにかして救いたい一心であった人も中にはいたのでしょう。やはり相手の豊太郎が悪いという意見が多かったのですが、主人公に憎まれた友人の相沢が悪いと決めつけた人もいたようです。
そんな話し合いの中、司書は誰が悪いという意見も言わずにただぼうっとしていました。「当時の貴方には難しかった話か」と森に尋ねられました。いいえ、当時の司書はこの『舞姫』は作家が実際に体験したことを元に書かれた作品であったと知って感動していたのです。「……呆れ果てたのではないのか」と森は確認しましたが、彼女は首を振って彼と向き合います。彼女の瞳は、どことなくあの獅子に似て何でも見通す鏡のように輝いていました。
あの頃は、この作品がどこまで本当なのか理解できませんでしたが、それでも自分の人生に振り回され挙句、生涯の伴侶となる運命であった人と別れなければならない過去に向き合った作家を、大変偉い人だと司書は感動したのです。特に、振り向きたくもない過去に向き合ったその姿勢にときめいたと司書は、自身でも気が付かない内に胸を高鳴らせて興奮していました。
「少し深呼吸した方がいい。貴方がそんな俺の姿を本当に好いて良いのか、冷静に考えろ」
森は興奮して変に強張った司書の肩に手を当てました。乱れた呼吸を整えるように、たまに肩を何回か軽く叩きました。この感動を冷静さで鎮めるなんてもったいないと司書は森の手を跳ね除けるようにその場で飛び跳ねました。まるでお気に入りの絵本を前に喜ぶ子どもみたいだなと森はとうとう笑みをこぼしました。
他人の作品を読書してその人の頭の中を覗くのは楽しいですが、逆に他人から自分の作品を読まれて頭の中を覗き込まれるのは嫌でした。しかし、なかなか見ていて可愛いものです。司書のように彼自身の良さを知って懸命に伝えようとする姿は、物を覚えたばかりの幼児のようで愛らしさがありました。「まるで子供だな」と素直に一笑しますと、司書は本当に貴方の子どもになったような気分であると森を父のように甘えました。
司書にも嫌な過去の二つ三つそれ以上にあります。特務司書として務めてきた今までも、特に文豪たちが侵蝕者との闘いで絶筆する恐れがあったと聞いた時は、生きた心地がしませんでした。
この五年間誰一人絶筆しなかったのは奇跡に近いですが、その奇跡の裏には負の感情に心が折れ、酷ければ生死を彷徨った文豪たちの苦悩や悲痛がありました。だからこそ、折れた心を立て直し、死からもう一度蘇った文豪たちの姿は後光が差していたように眩しかったのです。
目には見えぬ霊の鏡というものを文豪たちが起こした奇跡を通して見つけられたと司書は言いました。五年前『舞姫』の潜書から戻ってきた森の顔にも身体の内に宿った焔を確かめられて本当に良かったと心から嬉しそうに笑います。
「その焔は今もよく燃えているようだな。貴方のその笑みを見れば分かる」もし焔が消えそうになったら守りましょう。胸を張る司書に森は肩をすくめました。「俺が灰になっても貴方は火が点くまで番をするだろうな」そう苦笑しながらも、歩みを止めぬ獅子同様、森林の奥深くを望む彼の瞳は希望がある未来に輝いていました。
その輝く瞳は同じく煌めく何かを木の根元で見つけました。取ってみると貝殻でした。朝焼けの波間を映したような光彩を放つ貝殻は煙草の吸殻で溜まっていました。嗅いでみますと、銘柄の朝日の匂いの中に人肌の香ばしくも甘く熟れた香りもありました。先方を歩む獅子の残り香にも似ていますので、「ほう、あの獅子は煙草を嗜むのか」と大きな発見をしたような気分でした。
森の膚から香る匂いをあの獅子の毛に付けてみたと司書は恥ずかしそうに頬を紅潮させます。「この匂いが好いのか」と森に尋ねられますが、あれこれと言い淀んでいる内に彼の真剣な眼差しにやられて、真っ赤な顔をして正直に好きだと答えました。森家の家族が愛していた香りを他人である司書も好いて良いのか戸惑っていたようです。
「貴方は貴方なりの価値を認めていけばいい。何が好いのかを伝えた先に己の真実が待っている。それがどんなに小さな真実であっても、正直に伝えていけば絶対に見出せられる」
先程まで森についてあんなにも飛び跳ねながら語った司書はどこへ行ってしまったのか、不安げに彼女を眺めます。まるで外来船に乗ってしまったような遠く離れた存在になってしまったようです。
