四話・No.013 森鴎外『獅子の咆哮、百年経ても遠く響く』
 おそらくお酒の力でおかずに菌を寄せ付けないように気を配ったのでしょう。上手く固まらなかった卵から漂う鼻孔を突き抜ける酒の匂いに、しばし箸を止めながらも完食した達成感が今も込み上がりました。
 「そういえば、貴方は人の欠点にさえ思いやる癖があったな。……なるほど、人の短所を己の長所にする手もあったか」その手は森が既に物にしていると言いたかったようですが、何もかも公平にしたがる彼なら司書と自身を公平にして並べてしまうだろうと諦めました。
 ですが、そう考えた途端森と肩を並べて立つ自分が空しい存在になり、そもそも一緒に立っていいのかと今更疑問を持ち始めました。
 彼の傍に寄り添うように、洋墨色の文字がふと浮かび上がります。才学識の文字を認めた司書は、その言葉の重さに耐えられない無力さを覚えました。その無力さに呼応するかのように、目の前にある門のような森林が強風に揺れてざわめきました。木々に染み付いた獅子の孤独な咆哮をようやく耳にしたのです。ただ聞こえただけで本当の意味を聞き取れませんでした。盲目な尊敬のせいでしょう、勉強不足です。
 司書は自分に言い聞かせるように Oui,beaucoup,Monsieur!* と小声で云いました。森の著作を読んで一番云いたかったフランス語を自然と独り言で云えるようになりました。「……一生勉強するつもりでいるのか」と森は呆れて司書の頭から手を離します。さすがに彼しか考えられない脳であっては困るようです。
 森は人の作品を通して人の脳内を覗き込んでみたいのです。きっと人々が持つ可能性を見出したいのでしょう。司書の頭を覗き込んだら、自分そっくりな男と目が合ったような気まずい気持ちになるに違いありません。いいえ、もう既に未来を見通せる目は頭の中にいる自分そっくりな男と目が合ってしまいました。
 アルケミストの脳はそう簡単には見られない作りになっていると司書は冗談交じりに言いました。「その作りを知るには、まず貴方について勉学に励まなければならないな」と森の冗談に司書は上機嫌になりました。是非とも彼の才学識で自分を調べて欲しいと本当に願いました。気分が良くなった彼女は、恐れも知らずに獅子の傍へと近づきました。
 野原に寝転がって森林を眺めていた獅子は近くで座り込んだ彼女を横目で見やり、組んだ前足に顎を載せてくつろいでいました。司書は小花をいくつか摘んで獅子のたてがみに付けました。獅子は怒りません。今度は天道虫のような小さな虫をたてがみに招待しました。獅子はやはり怒りませんでした。見慣れた焦げ茶色の瞳は慈愛に満ちて輝いています。
 「貴方の頭の中に居座る男はそんなに優しい人間だったのか」と愚痴っぽく言いながらも、森は司書の隣に腰かけて何かを求めるように流し目で見ます。先ほど獅子にしたことを自分にもして欲しいのです。彼の言葉を耳でよく聴いた司書はまず赤い花を森の耳にかけました。次に木から落ちた葉を肩にそっと並べます。今度は近くを通りかかった小さな蜘蛛を指に載せて、彼の大きくて白い手のひらに置きました。森は全て笑って返しました。
 司書は頭の中にいる男の人にも同じような事をしたら微笑んでくれたと言います。「俺なんか勉強よりも、あそび相手には丁度良いだろう」森は満足げに笑いました。蜘蛛は彼の指環のように左手の親指に止まりました。よく見れば蜘蛛の目は西洋人のような蒼い色でした。
 小さな生物さえ自分のあそびに付き合ってくれると、つい童心に帰った森は司書に指を見せます。これは死のおおきみにさえ恐れない丈夫な指環ですねと司書は慈しんで微笑みました。
 つい笑いすぎましたので森は喉が渇きました。持ち歩いていた貝殻をふと見やりますと、吸い殻の中に小さな杯が一つ入っていました。まるで吸い殻が溶岩のように黒く溶け出し、その貝殻の上で冷えて固まったようです。その黒い杯を森の手に載せました。指で持つと二勺にも満たない水が杯に満ち満ちます。自分には丁度良いぐらいだと森は唇を潤しました。司書も飲みたいと手を差し出します。
「俺が探している真実を見つけるのは容易ではない。それでも……貴方は俺の傍に居続けてくれるか」
 いつものように冷酷に突き放したような言い方をしたかったのですが、どうも司書の慈愛に甘えてしまいました。こんなあそびにまで付き合ってくれる者は、今後生まれ変わってもそうそういないでしょう。
 それこそ貴方が灰になっても傍にいると司書は森の手から黒い杯を受け取り、わずかな水を美味しそうに飲みました。口も喉も潤した二人は森林を一冊の本を読むようにじっくりと鑑賞しました。獅子は創造主であるアルケミストの確固たるものを見抜き、守護者として本の世界を形作っている森林を守る為に暗緑色の中へと再び入っていきました。
 二人は森林を眺めます。肩を並べて緑の門を見守ります。緑色の中に緑色でえがかれたようになるまで、ずっと森林を見つめていました。


 引用:『森鷗外全集2 普請中 青年』森鷗外著 筑摩書房出版 1995年発行
 以下、『花子』より。
 * Oui,beaucoup,Monsieur! フランス語。「はい先生、せいぜい勉強しました。」
 『朽葉色のショール』小堀杏奴著 講談社出版 2003年発行
 掲載日:2022年07月09日(森鷗外没後百年)
 文字数:7679字
 BGM / 'Sprickor Av Ljus' Purl


Page Top