彼の言いたげな瞳に司書はその場で立ち止まりました。森は彼女の様子を横目で窺い、きっと彼女なら後で付いて来るだろうと獅子と一緒に歩み続けます。
森の目は未来さえも見通せますので、自分の後ろから小走りに駆け寄ってくる司書の姿を想像しました。走り出すまでに、司書は胸に手を当てて森が言った言葉を反芻するでしょう。そしてその言葉をよく噛んで、自分の身体の中に流し込みます。言葉一つ一つが血の巡りに沿って流れていき、ようやく司書の物となった瞬間、彼女は森の本当に伝えたい真実を知るでしょう。
そうして、司書は森の元へ駆け出しました。森の耳は本当に何もかもよく聞こえますので、彼の背後まで駆けてきた彼女の足音を聞き取ったと同時に軽く腕を差し出しました。待ち望んでいた司書はその腕を取って彼と共に歩んでいきます。
人に愛されることは何と心地が良いのでしょう。魂の歯車が喜んで回ります。彼を認めそして愛してくれた者たちに慈愛を与え続けてきたからこそ、森は今も隣にいる未来の読者に愛されているのです。
彼が治した庭に咲く草花は人々の膚を涼やかにしただけではなく、彼が見つけた小さな真実や自然が種となり、やがては読者の心の中で花となって咲いたのでしょう。余裕派の名を与えられた同志の夏目と正岡、森の著作を教科書として敬愛した永井、そして同じく文士であり医者である斎藤達の魂の歯車には、森が懐かしむ花々が咲いていたではありませんか。
魂も文学も巡れば巡る程人々に愛される、だから何度も蘇ると司書は微笑んでいる森の顔を覗き込みました。彼の瞳を見て、今度は貴方の言いたい事をちゃんと理解しましたと花笑みを浮かべました。晴れ晴れとした顔付きでいる二人の前方には、見晴らしの良い草原がありました。
獅子は暗緑色からだんだんと薄緑色が拡がる場所に移ります。辺りには二人の足元にしか及ばない背丈の木々が所々生えていました。後ろを振り返りますと、緑豊かな木々が門のように空高く聳えていました。青々とした緑が前を覆い尽くす中、奥を覗き込みますと日焼けして枯れた葉もあれば、日に当たらず蔦に巻かれて不自由でいる枯れ木もありました。
よく見える者には木々の間に咲いている鮮やかな赤い花々を認められましょう。森の目には梢の間から漏れた空の蒼い光があの優しい瞳のようだと思い出します。そしてよく聞こえる者には葉や梢の擦れる音以外にも、花開く生命の音や葉先に零れる露の音を耳に入りましょう。森の耳には木々に染みついた復讐に燃える獅子の咆哮が聞こえました。酷い声だと森林の奥から吹く風を嫌そうに当たりました。司書には疲れを癒す涼しい風だったようで、また気持ち良さそうに髪を靡かせました。
獅子の復讐の咆哮をなんと聞いたのか気になって彼女を見守っていますと、風に当たった髪は一瞬こがねに輝きました。どんな嵐にも耐え抜く柔らかい雲のようなその髪を森はもう一度触れました。
「この五年で貴方の髪は本当に綺麗になった。俺が良く触れるから綺麗になったのか、……それとも貴方が触れて欲しくて綺麗になったのか。これは、サフランにも分からないな」
自分もサフランも両方の意見を肯定するだろうと司書は撫でる森の手に身を寄せます。人が持つ色々な可能性を信じるのが森の言いたい真実だろうと木々の頂を眺めました。銀色の鳥が木の上で休んでいます。蒼い空によく映える銀色の鳥でしたが、森には汚い灰色に見えました。だからと言って銀に見えない不満もなければ、汚い灰色を嫌がることもありません。
「あれは鴎だな」と森はさも埃を見つけてしまったように苦笑しますと、司書はベルリンの川からやってきた鴎であると羽搏いた鳥の翼を眩しそうに眺めます。刹那の赫きと云ってもいいのですが、彼女の瞳には永久の輝きに見え、鴎が羽搏いた後も瞳には銀色の煌めきがずっと映っていました。
「何もかも真実を綺麗に見えては困る。その目を本当によく見えるようにしろ。俺の長所が貴方の長所にはならない」
それもそうだと、司書は急に森が卵料理に失敗した出来事を思い出しました。前に司書の弁当を作ってやろうと思い立った森はスクランブルエッグに似たようなおかずを用意しました。どうやら料理酒の分量を多くしてしまったようで、司書がお弁当を出した時には蓋から卵が零れていました。
