一話・No.013 森鴎外『鹿の石』
 外気よりも多分に冷たい空気を閉じ込めた地下閉架書庫の奥には、休憩室があります。どうやら、この図書館に転生した文豪たちしかその休憩室を利用していないようです。図書館の職員も部屋の中の用意や片付けの為に入ります。ですが、彼らはその部屋を恐れるようにあまり長く留まろうともせず、近くに寄り付こうともしません。
 森はその休憩室に今まで入ったことがありません。周りの文豪たちから話を聞いて、その存在を知りました。いくつ部屋があるのかそこまでは知りません。ネコから第一休憩室に行けと言われましたので、おそらく通路の端にあるであろう部屋に向かいました。
「お前は疲れというものを知らニャイ。故に、館長がお前の扱いに困っているのだ。森の心身を労するにも、逆にお前が館長を労わってしまう。医師としての性なのだろうが、今は患者の相手よりも自身の体調を気遣え。頭は疲れていなくても、魂は疲れている。館長はそう言いたかったのだ」
 ネコは、何故自分がこんな面倒を隠居した後もやらねばならないのかと愚痴をこぼしました。森は古今東西に名の知れた博士にも三毒があるのだなと、面白そうに新たな発見をしげしげと眺めました。
「……確か司書が言っていたな、頭は天気でも心は病気だと。真昼の空に向かって稲妻が綺麗だなと言えば、疲れ切っているのだろうと心配されてもおかしくない」
「お前……本当に自分の身体のことまで診ているのか。吾輩には能天気にしか見えん」
「己の身体を診察するよりも、患者の病気を診ている方が自身の欠点を見出しやすい。すまないな、俺はそういう性癖で生きている人間なんだ」
 ネコは冗談とも言えない森との会話に飽いて、地下に通ずる階段の前で帰ってしまいました。
 森は微笑みながらネコを見送ります。猫よりも犬の扱いが上手いのかもしれない、そう思いながら、彼は実に面白そうに階段を下りました。
 明かりには動く物に反応する装置が付いてあり、森が歩を進めていく度に天井の電灯が点きます。しばらくすると、後方の電灯の明かりが消えました。空しく冷たい空気が彼の背後に漂っています。前に前に進んで行っても、何もない大きな空間が彼の背中に纏わりつくのです。本当に何もないことを訴えてくるかのように。
 パッと照らされた壁にある看板を見て、森は第一休憩室の前に進んで行きます。彼の背よりも高い鉄の扉が壁の隅にありました。この扉は閉架書庫の冷気を随分と吸い尽くしたのでしょう、触ると氷のように冷たく、一切の熱を寄せ付けませんでした。
 森がドアノブを回し重たい扉を開けますと、中から思った以上に明かりが漏れました。あまりの眩しさに目を細めます。電気の通った明かりが、部屋を寂しそうに照らしています。畳の井草しか匂わないのも余計に孤独な感情を誘いました。
 森は小さな玄関で草履を脱いで、六畳ほどある部屋の真ん中に敷かれた布団を見下ろしました。布団を見てもやはり眠気は来なかったので、辺りを観察しました。枕側には寝具を納める押し入れの襖があります。その左隣には床の間があり、掛け軸が飾ってありました。
 掛け軸の内容は、部屋に入る文豪たちによってどうも違うらしいのです。過去に井伏が入った時は芥川の言葉が飾ってあったらしく、周りに話すほど大層喜んでいました。
 森が見た掛け軸には『不必崇古』と几帳面な字で書いてありました。赤い落款には ゆめみる人と彫られてあります。彼の脳裏には、女の柔らかな指で内なる男性の逞しさを描こうとした司書の姿が思い浮かびます。
「umkehren……。新しい時代の芸術だな、上等だ」
 森は満足したように頷きます。刀掛けに日本刀を置いて、布団の近くに座りました。しばらくは掛け軸を眺めて、司書の姿を頭の中に思い浮かべました。


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