二話・No.013 森鴎外『鹿の石』
 ここ最近彼女に会っていなかったので、最後に見た日の記憶が自然と思い出されます。あの日も、司書は実験室に置かれたソファの上に寝転がって居眠りをしていました。仲間の文豪たちが魂を覚醒するようになってからは、その反動なのか再び体調を崩すようになってしまったのです。
 司書はよく睡眠で体調を整えますが、仕事中でも眠るようになってしまい、何人かの文豪たちに目撃されてしまいました。
 森がその現場を初めて発見した時は、どうか館長たちには内緒にしてほしいと言われました。仕事の数を減らされたら、文豪たちに会う機会も減らされてしまうことを彼女は恐れいたようです。
 森に秘密を託したのは、これが初めてではありません。居眠りを見られた時も、司書は恥ずかしそうに森に耳打ちをしました。彼女が、他人の耳に向かって内緒話するのは森だけです。森にしか話したくない内容とはいえ、彼自身も聞いていいのか当初戸惑いました。
「他人から仲間の秘密を言えと問われれば、俺の隠し事を売っておくが、俺もそこまで人の秘め事を守れるほど忠実な人間ではないぞ。……それでも、俺に過去の過ちを話しても良いのか」
 最初に内緒話をされた内容が、あまりにも衝撃を受けたものだったので猶更です。犬を毛嫌いしている司書が、愛犬家の文豪たちの要望を受け入れようか大変悩んでいた時、森に相談をしました。この時、彼女は怪我か何かをして手当てをされていました。診察の流れで、つい森の前で胸の内を吐露したのです。
 彼女が犬嫌いになった理由を耳打ちされましたが、あんな内容は確かに誰の耳にも入れたくないだろうと森は心底彼女に同情しました。そもそも、彼自身に話してもいいのかと疑うほどの深刻さを窺えました。
 しかし、話を終えた後の司書の顔は清々しかったです。信頼できる人間が傍に居るだけで、人はあんなにも輝くのかと、森は感動さえ覚えました。
 司書からお礼を言われた際、「俺も礼を言いたい。良いものが見れた」と返しました。人の相談を聞いて礼を言うなんて何かの冗談かと思われたらしく、不思議そうに彼女に見つめられました。
 これをきっかけに、司書がどうしようもなく秘密を抱えてしまい、その重さに耐えきれなくなると森に話すようになりました。始めは、子どもが悪さをした秘密を父親の頭の中に隠すようなよそよそしさがありました。ですが、だんだんと彼女の心が開いていったようで、美味しいお菓子を見つけたから一緒に食べないかと中庭の木陰で甘えたように小さく囁いてくれました。
 彼女の感情が花のように咲いたり閉じたりところころと変わっていくので、森は愉快になって彼女の耳打ちに長く付き合いました。ある時は、司書に悪戯をされて彼の短歌や詩など耳元で詠われました。森は、自分の頭の中を覗かれているような気分になって不快感を覚えました。ですが、司書が森の耳元で詠う度に唇の形が良くなっていくので、どうしても耳を傾けずにはいられませんでした。
 「貴方はサフランのような人だな」と茶化しましたが、相手はよく分かってくれなかったようです。無知な素振りが森への愛想なのか何とも言えませんでした。司書も森の冗談を通じない真面目な人だったので、彼は大層気分が良くなりました。
 この掛け軸に書かれた言葉も、彼の孤独を理解しないままに筆を持ったのでしょう。見れば見るほど、文字から滲む自信の無さが森の目に浮かんで表れました。ただし、ゆめみる人の紅い落款だけは、文字がよく写るように力強く押されています。やはりよく眠る人だから、夢には強い自信があるのだろうと森は微笑みました。
 「寝てみるか」そう言って、森は自分の身体に言い聞かせました。今から寝るのからしっかりと眠りに就いてくれと命令するように独り言ちます。愛用している青みかがった白色の単衣を着たまま横になりました。不意に、懐かしい匂いが彼の鼻孔を取り抜けます。司書の手のひらの甘い香りがすると頭で分かった時には、彼はもう眠りに就いていました。


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