皆を見送って満足した森は、もう一度荷車を眺めます。積み上がった贈り物が崩れ落ちないか不安に思いながらも、数の多さに心が満たされるような気持ちになりました。最初に置かれた蓮華の花は荷車の後ろ、多くの贈り物の影にひっそりと隠れていました。司書もどこかに隠れていたようで、荷車の影からそっと森の前に現れました。
「さあ、貴方も皆がいるところへ行こう。俺がここで見送ってやる」
彼女はまだ森と話したいようで、彼の傍に近寄ります。甘えたような素振りをするので、きっと耳元で話をしたいのだろうと森は察しました。
彼女の身長に合わせて森は屈みました。司書はこんなことを彼の耳元で言いました。実は、奈良でお菓子を貰った小鹿の生まれ変わりだというのです。夢の中なら、そんな話はありえるのです。
「随分と美しい人間に生まれ変わったな。前世では、よほど大事に育てられたようだ」
森のおかげだと彼の耳を噛むようにうっとりと言います。そういえばと彼は思い出しました。いつの日か、司書のそっと囁く姿が木の葉を噛む鹿みたいだと言いました。司書はそんな歌があると返事をして、森の耳に口を近づけて教えました。
情欲を歌に変えて想いを伝える爽やかな逢瀬のひと時が、彼を狼にはせず人として保させてくれました。迷える狼がいつも救ってくれるのは、血肉にも身に着けたいほどの美しい芸術品なのです。
愛らしく司書の頭を撫でていますと、彼女は立派な牝鹿に変身しました。ほんのりと紅く染まった珊瑚色の毛皮が、何度も撫でたくなる柔らかさと美しさを兼ね揃えています。
牝鹿は森の手に触られて気分が良くなったのでしょうか。荷車の持ち手を潜り、口にくわえて車輪を回しました。あんなにも重たそうな荷車を必死になって運ぼうとしているのです。
「無理はするなよ。俺なんかに付き合っても孤独に空しくなるだけだ」
鹿の口から人のような笑みがこぼれたようにも聞こえます。どことなく森の笑い声に似ていました。そこまで自分の真似をしなくてもいいのにと、森は自分の姿にだんだんと似てきた鹿を憐れに思いました。
森は牝鹿と共に夢の世界をどこまでも歩いていきました。長い道のりのようで、一瞬の旅路でもあったようにも思えます。この真っ白な世界は丸い器のようでした。風船のように膨らんで広がっていくかと思えば、空気が抜けて萎んていくような狭さもありました。
これが、自身の魂であり頭の中なのだろうと森はどこまでも歩んでいきたくなりました。そこに壁はない、彼の知識を刺激する新たな門が開かれる、そんな自信を持って歩を進めました。
しかし、とうとう牝鹿が立ち止まってしまいました。口から荷車の持ち手を外します。荷車は決して地に傾きません。鹿だけが地に伏してしまいました。森が傍に寄った時は、すでに息絶えていました。
司書の分身とも言える鹿が亡くなったというのに、彼の感情に悲しみが起こりませんでした。新たな門が開かれた瞬間です。探求心が尽きない彼の知的好奇心が疼き始めました。
その閃きに呼応するように、鹿の頭から何かがきらりと光りました。ぱっくりと開いた脳から、何か白い石のようなものが輝いています。手のひらに載せると、卵のような形をして、角度を変えていくと乳白色の表面に虹色の光沢が美しく煌めいています。小さい割には手のひらに重くのしかかります。これが魂の重さだと納得できました。
「俺も随分と品種改良できたものだ。皆に礼を言わねばならない」
荷車の贈り物はすべて消え去りました。後に残るのは、影のように空しく佇む空車だけです。しかし、森には良い目覚めの時でした。
「貴方の頭の中を覗いてきた」
休憩室から戻ってきた森は、久しぶりに夕刻の中庭で司書と会いました。彼女は、唐突に言われた言葉の意味を理解できずに顔を赤くします。恐る恐ると落ち着かない手つきで、どうだったかと訊ねました。
「妙に綺麗な俺がいたよ」
ありがとうと森は言葉少な気に言いました。何故お礼を言われたのか、司書にはどうも理解されませんでした。常に父として師として恋人として傍に居た彼を愛していたから、彼女は森の孤独を知らないのです。
孤独の彼方に見てしまった前人未踏の領域を知っていれば、きっと森の考えも見抜けたでしょう。その領域に入り込むには、彼女はあと何回生まれ変わって森と会えば果たせるのか、それは彼女自身にも分かりません。
引用:『文豪怪談傑作選 森鷗外集』森鷗外著 東雅夫編 筑摩書房出版 2006年発行
掲載日:2024年01月10日
文字数:6920字
