三話・No.013 森鴎外『鹿の石』

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 地下にある閉架書庫の休憩室で眠ると、必ず夢を見るという噂がありました。噂と言っても、本当に夢を見た文豪たちが夢の内容を語ったり黙ったりしているので、事実なのでしょう。
 ですが、普段から夢を見ずに深い眠りに就く森には噂としか聞こえませんでした。たった数時間眠っただけで頭の疲労を落とせる体質であった森には、それこそ夢のような話でした。
 それが、今こうして彼の目の前に本当の夢となって現われているので、不思議で仕方ありません。夢現なのか判断する際、自身の頬を抓る手段がよくあるようですが、森には不要でした。彼の頭がよく分かっていたのです。これは夢であると、現実で ゆめみるひと と名乗って、思い描いていた夢がここにあると確信しました。
 何もない空間、真っ白にも見えるようで、どことなく暗く翳っているような場所でした。白黒どちらであろうとも、空しさで満たされていることは確かです。何もないのに、無が辺りを満たしているというのもおかしな話でしょう。しかし、森には自然と受け入れられる事実でした。
 自分の本当の姿を決して見ることはない、本当の姿は常に背後に立っていて、自身が人生の舞台から降りない限り、真実を現さないと分かりきっていたのです。その姿を見られるのは、自身が亡霊になるぐらいしかないでしょう。
 森が後ろを振り返っても、当然彼の真実は見当たりません。さすがの森も、夢の中でも本当の自分を描けないのかと空しい気持ちになりました。
 不意に、視界の端で黒い影が動きました。影をよく観察しますと、黒い線が植物の蔦のように絡み合い、大きな荷車のような格好に変形しました。その荷車の上には、何も載っていません。森は荷車をじっと眺めて、何もないことに満足そうに微笑みます。
 やはり自分には何もなかったのだなと荷車を慰めるように見ていますと、車輪の近くに一人の人間が、ぱっと花が咲くように現れました。司書が後ろ手に荷車の上をじっと見つめています。森は、これから悪戯を仕掛けるなと彼女の動きを見抜きました。
 司書が、おもむろに手に持っていたものを荷車の上に載せました。森が近寄ってみますと、蓮華の花が一輪置いてありました。彼がその花の懐かしい思い出を振り返っていますと、白くもあり翳っている空間の奥から人の気配を感じました。
 夏目が本を片手に歩いています。そして本を置いて、やや照れたように森に会釈して帰りました。正岡も手紙や短冊を置いて人懐っこそうに手を振って夏目の後を追いかけます。続けて、田山も軽快な笑みをたたえて手紙とちょっとしたお礼の品を置いていきました。
 永井が緊張した顔つきで本を置きました。二冊しか置いていないのに、荷車はやや大きく傾きました。背表紙を覗くと、一冊は何かの辞書で、もう一冊は鷗外全集と書かれてありました。永井は何も言いませんでしたが、自分の話よりも森の作品を一通り読んだ方が文学の為になると言わんばかりの自信に溢れていました。
 北原、石川、吉井、齋藤と後から後から顔馴染みの歌人たちが、それぞれの短冊を置いて順々に頭を下げて挨拶をしました。遅れて、柳田が森にしか見せない幼い顔をして贈り物を荷車に載せました。
 前世の時から見知った顔を十分に眺めていましたら、彼の足元ではしゃいでいる新美に気付かず驚いてしまいました。新美は驚く森を見て上機嫌になり、彼に見せつけるようにぬいぐるみのごんを持ち上げました。新美のあどけない笑顔から、友だちや自分の怪我を治してくれてありがとうと言っているのが伝わってきました。新美は、森が中庭で手入れをしている草花を置いていきました。
 やはり子どもと戯れていると、森は家族のことを思い出して楽しくなるようです。なので、しずしずと彼の傍を通った坪内にも笑みを返すことができました。こうして、坪内と向かい合うのは談話室で再び行われた論争以来でしょう。ドイツの地で学んだことしか言い返せなかった森に対して、快く返事をしてくれた坪内の聡明さには思わず胸を預けたくなります。
 坪内の後ろを寄り添うように歩く二葉亭にも、森は礼儀を尽くして会釈をします。二葉亭は彼の会釈に遠慮してしまい、戸惑っているようでした。ですが、森の博愛の微笑みに緊張の糸が解けたようです。二葉亭は被っていた帽子を恭しく荷車に置き、感謝の気持ちを伝えました。
 今度は、二葉亭に隠れるようにして立っていた山田が現れ、にやにやと幼馴染の素直な行動を観察していました。森は山田に対しては深々と頭を下げました。山田は大したことはしていないと言わんばかりに、蝶が舞うようにひらりと背を向けて去りました。


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