一話・No.087 ポー『黒猫の爪先が弾く神経の音』
 恐怖を好いても退屈を嫌うのは、何かに熱中していれば自分が孤独であることに気付かなくなるからでしょうか。
 いつも持ち歩いている万年筆で潜書の報告書をしたら今日のお仕事はおしまいです。ですが、これはポーにとって退屈な時間の始まりです。周りの皆が分かるほどに、彼ははっきりと不機嫌な顔して窓に映った自分の顔とにらめっこしています。ちょうど窓の外に映った中庭は平和を彩るように緑豊かに生い茂っていますので、余計に淡々とした現実に飽き飽きしてしまいました。
 背後から足音がして、「退屈しのぎになるものを用意できたか」と窓を見つめたまま言いました。ポーの耳はとても良く、誰の足音なのか顔を見なくても分かります。それに窓のガラスには司書の姿が映っていましたので、ガラスの中にいる彼女の話しかけました。ちゃんと顔を合わせて話せばいいのですが、猫みたいに気紛れで天邪鬼な彼は立派な人間のように面と向かって話す気はありませんでした。
 ポーは退屈で仕方ないと不満を漏らしますと、司書の手元に輝くものを見つけて振り返りました。彼が好みそうな猫の形をしたチョコレートを持って来たと司書に言われ、すぐにその場でお茶会を開くことにしました。
 夕刻を告げる柱時計が鳴ります。談話室には二人しかいませんので、茶器のカチャカチャと鳴る音は勿論お茶を注ぐ水の音までよく聞こえました。
 彼女から贈られたお菓子にポーは戸惑いつつも、舌の上に載せて転がした後紅茶を流し込みました。味ははっきりとは覚えていません。確かに彼の好きな猫の姿をしていましたが、だからと言ってチョコレートにして食べたいのかと言われますと何とも言えません。
 自分が好む生き物を食べてしまいたいぐらい可愛いと言う愛情表現に彼は困惑していました。愛おしいものを胃の中に入れてしまったら、その後その愛おしいをどう愛するのか、ポーには想像できなかったのです。消えてしまったものが再びこの世に蘇ることができても、好きだからまた食べてしまって、結局はもう二度と一緒にはいられない恐怖が待っているような気がしました。いくら恐怖を愛するポーであっても、母親に先立たれてからは愛する者を失う恐怖には耐えられません。転生した今も死と同等に跪いてしまいます。
 今こうして司書と二人でお茶を飲んでいる時間も、歳を重ねるにつれて、やがては彼女と一緒にお茶を飲む機会を永遠に得られなくなる日が訪れるのかと思うと、次の一杯を飲めずに苦しみます。先ほど飲んだ紅茶が舌を渋くさせ、気づけば彼は苦い顔をしていました。
 具合が悪そうなポーを心配して、司書はお茶会を終わりにしようかと茶器を片付けようとしました。カチャカチャと嫌に鳴るカップの音が彼の耳には破滅にも似た音となって響きます。
 頭痛を起こしそうな音に彼は片づけをする司書を止めさせて、まだ椅子に座るように促しました。「余計な心配はいらない」と自分が退屈であることをもう一度不満げに漏らし、何か話をしてくれと彼女の手を握ります。相変わらずとても冷たい手をしています。人肌とは思えない青白い手です。だから、人肌が恋しくなって司書の傍に居たいと甘えるのでしょう。
 手を握られた彼女はいつものことだろうと普段なら彼の願いを聞き受けてくれますが、今は彼と分け合った猫のチョコレートに舌鼓を打っています。口の中の温かさでとろけるチョコレートの濃厚な甘さを堪能しているのです。
 大分食いしん坊なようで、ポーの前に置き去りになっている二匹の猫のチョコレートをちらりと確認しました。物欲しそうな眼をしているので最初は彼女にあげようかと考えましたが、何だか素直にはなれずお皿を取って彼女に渡すつもりでしたが、チョコレートを一つ取って自分の口の中に放り込みました。とても大きな一口だと司書は何故か機嫌よさそうにしています。


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