ふと顔を見上げて、司書と目を合わせました。ちょうど詩を読み終えたところです。彼女の名前を呼ぶと、やや遅れて返事がしました。普段ポーから名前で呼ばれることがなかったので、司書はびっくりしたのです。
はにかんでいる司書の顔には、恋人のように甘えた表情もあれば、母のように慈愛に満ちた表情もありました。今まで彼が出会った女性たちの顔と全く変わりはありませんでしたが、やはり母もこのような顔をしていたのでしょう。この表情には彼を懐かしいと思わせるものがありました。
「私がわざわざ読み上げたんだ。これでもう分かっただろう」
そう言ってもう一度司書の名前を呼びますと、彼女は返事をしました。分かりましたという意味ではなく、名前を呼ばれて返事をしたのです。ポーはそのことに気付いて違うと怒鳴りました。子どものように駄々をこねて声を荒げたので、彼女は驚きつつも笑って恥じらいました。「少なからず信じていたのに」と、とうとう彼は嘆きだしました。
二度も名前を呼ばれたので、司書はもしかしたらと紙に書かれた詩をじっくりと見ます。最初の一行目の頭から、順々に二行目は二文字目を、三行目は三文字目を、だんだんと目で文字を追ってきますと彼女の名前が浮かび上がってきました。ようやくポーが用意した秘密を見つけました。
なんて素晴らしくも面白い詩なのだろうと司書は大変喜びました。この喜んだ顔をついに見ることができたポーは疲れ切った顔でやれやれと頭を振りました。頭の後ろから神経が彼をくすぐってきます。頭を振ったら余計にこそばゆくなって、可笑しくなって、笑いたくなりました。
子どもみたいに笑っていると司書に言われて、ポーは調子に乗りました。「今度は貴様が詠んでみろ」そう言って、座っていたソファの背もたれに頬杖をしました。手に載せられた頬が少し膨らんで、本当に幼い少年のようなです。それに口の端が膨らんだ頬につられてにやりと笑い、悪戯好きな子どもみたいでした。
幼心を抱えたポーはさあ詠めと司書にせがみます。おやすみの前に、お話をしてほしいと母親に我がままを言っているようでした。母親の寝る時間を奪ってまでも眠る前から夢を見ていたい、夢の中へ入ってから更に夢の奥へと潜りたいのです。彼の見ている世界は色の鮮やかさを失い、夢か現かあやふやな白い靄がかかっていました。
司書は先ほどのポーを真似て詩を詠います。隣にいる彼は「相変わらず詠うのが上手くないな」と茶化したり、「波のように詠え」と水を差したりしました。最後の辺りで良い具合に詠えますと、彼は楽しくなって彼女の手の甲にキスをしました。
「今度私の前で上手く詠えたら、その額に口づけをしてやろう」
司書は恥ずかしながらも笑って約束をしました。時折笑い声から咳に似た音が漏れ出し、彼女はポーの手から離れて手で口を覆いました。震える肺の中に溜まった嫌なものを全て吐き出すように咳き込みます。
ああこれはきっと彼女も自分より先にいなくなるなとポーは分かっていながらも、昂っていく神経を抑えきれず、もっと欲しいとねだるように彼女を自身の胸元に抱き寄せました。
My heart to joy at the same tone ――
And all I lov'd ―― I lov'd alone ――
引用:
『対訳ポー詩集』加島祥造編 岩波書店出版 2019年発行
'Annabel Lee'
'Alone'
作中に使用した作品:
『こねこのチョコレート』
B・K・ウィルソン作 小林いづみ訳 大社玲子絵 こぐま社出版 2004年発行
掲載日:2022年02月26日
加筆日:2022年04月12日/2023年01月27日
文字数:6277字
BGM / 'Child In The Dark' Sneaker Pimps
